執筆者:冨田 健太郎(信州大学 工学部内 アクア・リジェネレーション機構)
本エッセイの最終版として、ラテンアメリカ関係者にとっては、知らなくてはならない人物としてシモン・ボリバルが挙げられよう。彼は解放者として知られ、スペインからのラテンアメリカの独立(大コロンビアの樹立)に貢献した。この大コロンビアの樹立とその後の分離独立によって、現在のコロンビア、ベネズエラ、エクアドルおよびパナマが存在する。今日のラテンアメリカ諸国においては、スペイン語圏の国々(メキシコ、グァテマラ、エル・サルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、キューバ、R.ドミニカ、プエルト・リコ(米領)、パナマ、コロンビア、ベネズエラ、エクアドル、ペルー、ボリビア、パラグアイ、ウルグアイ、アルゼンチンおよびチリ)が19ヶ国も存在するが、南米大陸の中には、食糧供給超大国としてのブラジルが存在する。ここはポルトガルの植民地であり、母国語はポルトガル語である
なぜ、ブラジルは大コロンビアのように分離独立することがなかったのか? これは、スペインおよびポルトガル史からの考察が必要である。スペイン自体が、カタルーニャ、バスクおよびアンダルシア等、今なお抱える多民族国家である。そのため、その『多様性を抱えたまま拡張する国家観』が植民地にも持ち込まれたということで、一つの統治の文化(政治文化)あるのに対して、ブラジルにおいては、ポルトガルは国家が切れなかったからである(1807年、ナポレオンの侵略によって、ポルトガル王ジョアン6世らが、リオ・デ・ジャネイロへ移動したことが大きい)。
1).シモン・ボリバルとは?
ラテンアメリカの中で、このシモン・ボリバルという名前を知らない人はいないだろう。青年海外協力隊員として赴任している方々にとっても、この方の名前だけは知っておいて損はない。何を成し遂げた人であるか? スペインからのラテンアメリカの独立に大きく貢献した人物であり、パナマ、コロンビアおよびエクアドルの首都の旧市街の広場等にその銅像が存在する。写真1に、前記3ヶ国でのシモン・ボリバル氏の銅像をそれぞれ示す。ベネズエラ(シモン・ボリバル国際空港をブラジル、マナウス国際空港行き便を待つだけで、空港内いろいろのみ)がないのが残念であるが、パナマとエクアドルは首都の旧市街、コロンビアも首都ボゴタであるが、ここはボリバル広場(Plaza de Bolívar)である。それほどの有名人であることが理解できる。




写真1 シモン・ボリバルの銅像(パナマ, 2009;コロンビア, Pixabay[1]の筆者による修正;エクアドル, 2014)
2).シモン・ボリバルの生い立ち(1783年–1808年)
1783年、ベネズエラのカラカス生まれのスペイン人で、クリオーリョ(植民地生まれの白人)上流階級の出身であった。幼くして両親を亡くすが、奴隷制に批判的な家庭教育を受ける。そして、青年期に ヨーロッパへ留学し、フランス革命・啓蒙思想(自由・共和)[2]に強い影響を受ける。
1805年、ローマで「祖国が自由になるまで闘う」と誓ったと伝えられる(象徴的エピソード)。
3).独立運動開始の背景(1808年–1810年)
1808年、ナポレオンがスペインを占領したことによって、スペイン王権が崩壊した。その結果、南米植民地で「本国が機能しないなら自分たちで統治すべき」という動きが拡大していくことになる。そして、1810年、カラカスで自治政府が成立し、 ボリバル、独立運動に参加した。
4).独立戦争の苦闘(1811年–1818年)
1811年、ベネズエラの独立を宣言(第一共和国)したが、すぐに王党派(スペイン軍)に敗北してしまった。しかし、ボリバルは、亡命と再起を繰り返す(カリブ海・コロンビア方面)そして、奴隷解放を掲げ、支持を拡大していった。その結果、1819年、難攻不落とされたアンデス越えを敢行し、コロンビアのボヤカの戦いで勝利した。
5).大コロンビア樹立(1819年–1821年)
1819年、現在のコロンビア、ベネズエラおよびエクアドルを統合する国家構想を発表し、大コロンビア共和国として成立し、ボリバルが大統領に就任した。ところが、1821年のカルボボの戦いにより、ベネズエラの独立が決定的となり、翌年の1822年のピチンチャの戦いによって、エクアドルも独立が決定的となった。つまり、北部南米の独立がほぼ完成してしまった。
6).大コロンビアの理念と現実
理 念
現 実
その結果、後に、大コロンビアは分裂してしまったのである(1831年)。
構成地域としては、現コロンビア(当時:ヌエバ・グラナダ)、ベネズエラ、エクアドルおよびパナマである。理念としては、南米北部を統一し、欧米列強に対抗する強国を作ることであった。体制としては、中央集権的共和国で、初代大統領がシモン・ボリバルであった。理想は『統一』であったが、現実は『多様性と分裂』であった。
1).地域差が大きすぎた
二つの小的要因として、地理的障壁と経済構造の違いがあった。地理的障壁としては、アンデス山脈、熱帯低地および海岸部である。そして、経済構造の違いとしては、ベネズエラは牧畜・カカオであり、コロンビアは金・行政であり、エクアドルは農業・港湾であり、パナマは中継貿易で、これらの国々の利害が一致しなかったことである。
2).中央集権 vs 地方自治の対立
ボリバルは、強い中央政府が必要と考えていたが、各地域エリートは、地方の自治・権益を守りたいと考えていた。その結果、両者の対立が激化し、特に、ベネズエラとエクアドルで反発が強かった。
3).ボリバルの独裁化と求心力の低下
1828年、ボリバルは非常大権を掌握(事実上の独裁)したため、反対派の増大を招いてしまった。その結果、1830年にボリバルが辞任し、同年に死去した。このことが、統一の象徴を失う結果となった。
1).正式な分離独立の流れ(1830年–1831年)
大コロンビアの崩壊と各国の正式な分裂独立の流れを見ていこうと思う。1830年にベネズエラおよびエクアドルが正式に分離独立し、翌年の1831年に大コロンビアが崩壊し、大コロンビアの残存地域が、ヌエバ・グラナダ共和国となった。次に、各国の独立の背景をまとめていく。
表1 大コロンビア共和国の分裂簡易史
(出所 ChatGPTの見解)
2).コロンビア(ヌエバ・グラナダ)
大コロンビア崩壊後の『中核国家』であり、行政官僚・軍の中心地であった。以後も、中央集権派 vs 連邦派 の内戦が頻発した。
国名も変遷され、ヌエバ・グラナダ共和国からコロンビア合衆国を経て、現在のコロンビア共和国となったのである。ここは、大コロンビアの中で、統一国家志向が最も強かった地域でもあった。
3).ベネズエラ
ここは、強い地方意識とカウディーリョ(軍閥)文化があり、ボリバル独裁への反発が最大であった。前記したように、1830年に独立し、それ以後は内戦・軍人政権が続いた。ここは、統一より自治を選択した。
4).エクアドル
経済的には、隣国のペルーとの結びつきが強かった。ボゴタ中心の統治に不満を持ち、前記したように、ベネズエラと同年である1830年に独立した。ところが、内陸(キト)と沿岸(グアヤキル)の対立が継続していた。つまり、地域分裂を抱えたままの国家成立であった。
5).パナマ
パナマの場合、先のベネズエラとエクアドルとは異なった形の独立であり、ラテンアメリカの歴史上においても重要な事項であると考えている。
前記、大コロンビア崩壊後の1831年以降、まだ、コロンビアの一部として存続していた。当時のパナマ(地峡)は、人口が少なく、自立国家としての基盤が弱く、そして、中継貿易でコロンビアとの関係が重要であったことが挙げられる。
今までのエッセイでも報じたように、この時期、フランス人のフェルナンド・レセップスが、パナマ運河建設に着手したが、黄熱病やマラリア等の熱帯病の猛威により、運河建設は失敗してしまった。
1903年に、パナマは独立を達成した。この背景は、コロンビア政府との利害対立の中、アメリカのパナマ運河建設に乗り出し、米国の強力な支援の下での独立であった(運河の利権を得たが、1999年新パナマ運河条約によって、1999年12月31日にパナマに返還)。つまり、パナマ独立は、ボリバルとは関係がなく、帝国主義時代の産物であった。
6).全体像
ボリバルの夢は、統一された共和制大国の建設であったが、現実は、地域利害の対立、中央集権への反発等であり、分裂は「失敗」ではなく19世紀ラテンアメリカの構造的必然といえる。
1).サン・マルティンの存在
ここでもう一人、重要な人物としてサン・マルティン(アルゼンチン人)を挙げる必要があろう。結論を先に記すと、ボリバルとは、個人的な敵対・内戦・罵倒関係ではなく、政治理念と主導権をめぐる対立(非公開・非衝突型)があった。表面的には、『静かな決別』であったが、しかし歴史的影響は極めて大きいとされている。
2).最大の分岐点:グアヤキル会談(1822年)
グアヤキル(現在のエクアドル)は、2018年-2020年までの活動国であったが(野口英世博士の黄熱病研究の対象地域でもある)、ボリバルとサン・マルティンは、「ペルーの残存スペイン軍をどう倒すか」、「南米独立後の国家像をどうするか」ということで会談が行われた。
会談の結果、公的議事録がなかったようであるが、政治的緊張を示唆したといわれている。サン・マルティンは完全に政界から退場し、ボリバルが南米独立運動の「唯一の主役」になったのである。つまり、事実上の主導権争いの終結となった。
3).思想的対立の核心(ここが重要)
サン・マルティンの目的は、独立の達成のみで、政治観としては、「南米社会はまだ共和制を支える成熟度がない」ので、「立憲君主制(象徴的王+議会)が安定的である」と主張した。彼の自己認識としては、「私は軍人、統治者ではない」ということから、秩序・安定・撤退を選ぶ人であった。
他方、ボリバルの目的は、独立+統一国家建設であり、政治観としては、「啓蒙思想に基づく共和制」を主張する一方で、「ただし強力な中央集権が不可欠」という考えであった。彼の自己認識は、「私が導かなければ南米は分裂する」であり、理念・統一・継続的権力を選ぶ人であった。
4).この対立が「大コロンビア分裂」に与えた影響
もしサン・マルティンが残っていたら?という架空な話となるが(スペイン語の接続法過去完了)、南米独立においては、北はボリバル(軍事・政治)、南はサン・マルティン(調停・安定)という二極体制でバランスが取れた可能性が示唆されている。
しかし、現実は、ボリバルが『独りで背負う』構図となり、結果としては、『権力集中』、『地方反発』、『独裁化』および『統一国家の正統性低下』となり、サン・マルティン不在は、大コロンビア崩壊の間接要因となったというわけである。
5).なぜ決裂は避けられなかったのか
表2に決別が避けられなかった理由をまとめておく。両者は、互いの協力は理論上可能でも、現実政治では困難であったといえる。
両者を簡易的にまとめると、サン・マルティンは、権力を拒んだ英雄であり、「負けた」のではなく「降りた」ということになる。他方、ボリバルは、解放者であり建国者でもあり、それと同時に、分裂を防げなかった悲劇的英雄でもあった。
結局、二人は対立したが、相互否定はしていない。むしろ、役割分担できなかった時代の犠牲者ともいえる。
表2 両者の決別が避けられなかった理由
(出所 ChatGPTの見解)
1).はじめに
なぜアメリカ合衆国は統一に成功し、ラテンアメリカ(大コロンビア)は失敗したのか?ということであるが、結論から先に記すと、ボリバルとサン・マルティンの資質の問題ではなく、『独立前後の制度・社会基盤・外部環境の差』であるといえる。
2).独立“前”の違い:自治経験の有無
箇条書きで記していく。
アメリカ合衆国
ラテンアメリカ
その結果、独立後に“国家運営の担い手”が不足であった。
3).社会構造の違い:同質性 vs 分断
アメリカ合衆国
ラテンアメリカ
つまり、『国家』という共通意識が育ちにくい
4).憲法設計の違い:妥協 vs 理念先行
アメリカ合衆国の憲法(1787)
大コロンビア
つまり、反対派は制度内でなく武力に訴えた
5).軍の位置づけ:文民統制 vs 軍人政治
アメリカ合衆国
大コロンビア
つまり、ボリバルの独裁化も『構造的必然』
6).国際環境の違い
アメリカ合衆国
ラテンアメリカ
7).ここでサン・マルティン vs ボリバルが再登場
つまり、アメリカは『妥協による連邦制』 を選んだのに対して、ラテンアメリカは『理念による統一』 を選んだということである。以上、解放者シモン・ボリバルの簡易史とさせていただき、詳細は割愛する。
図1 ラテンアメリカの中のスペイン語圏(橙色)とブラジル(ポルトガル語圏)
1).はじめに
大コロンビアが分裂してできた国として、パナマ、コロンビア、ベネズエラおよびエクアドルがあるが、これらの国々の母国語は、もちろんスペイン語である。この他、メキシコからアルゼンチンまで、スペインを除いた20ヶ国がスペイン語を母国語としている。他方、この南米大陸には、食糧供給超大国として知られるブラジルが存在し、ここはポルトガルの植民地であり、ポルトガル語を母国語としている(図1)。このブラジルは、南米大陸の中の大国であり、大コロンビアのような分裂が生じていないことに、一つの疑問点があった。これを知るには、スペインとポルトガルの歴史から掘り起こしていく必要があろう。
2).ブラジルがポルトガル圏となった理由
詳細な事項は割愛するが、ブラジルがポルトガル語圏となった歴史的背景を簡易的に記述しておく。世界史的には、1494年6月7日、スペインとポルトガルによって締結されたトルデシリャス条約[3]があり、ブラジルの一部および東回り航路はポルトガル領、ポルトガル領ブラジルを除いた南北アメリカおよび西回り航路はスペイン領になった。それゆえ、ブラジルの公用語はポルトガル語である。
3).レコンキスタ時代のスペイン
詳細な歴史事項は割愛するが、レコンキスタとは国土回復運動のことで、スペイン本土をイスラム教徒が支配してきた中で、キリスト教徒はそれに反撃し、国土を再度奪い返すということで、国土回復運動という訳されている。それを達成した後、1492年にはコロンブスが大西洋経由で大航海へ出向くというものである。
このレコンキスタの時代は、カスティーリャ、アラゴンおよびナバーラ王国等、異質な王国の連合体として成立した国家であった[4]。そのため、地方差、多元的統治や中央と地方の緊張を内包したまま帝国化したため、『多元性のまま拡大した国家モデル』がスペイン帝国の植民地統治に投影されたというものである。
4).スペイン帝国 vs ポルトガル帝国の統治構造の違い(その1)
ここも箇条書きで記すこととする。
スペイン帝国
つまり、植民地が最初から分裂しやすい構造
ポルトガル帝国(ブラジル)
この結果、分裂する単位が存在しなかった
5).スペイン帝国 vs ポルトガル帝国の統治構造の違い(その2)
独立の仕方にも大きな違いが存在する。
スペイン語圏
つまり、連邦は理念だけで実体がなかった
ブラジル
つまり、国家が「切れずに続いた」
6).スペイン帝国 vs ポルトガル帝国の統治構造の違い(その3)
これは、『国家』という観念の成熟度の違いである。
スペイン語圏
ブラジル
7).中米連邦が分裂した理由も同じ構造
話が若干逸れるが、中米連邦(1823年–1841年)[6]についても考察する。
つまり、これも、『連邦』という言葉だけで、国家ではなかったということである。
8).スペインの多元性が影響した
まとめると、スペイン自体が、カタルーニャ、バスクおよびアンダルシア等、今なお抱える多民族国家である。そのため、その『多様性を抱えたまま拡張する国家観』が植民地にも持ち込まれたということで、一つの統治の文化(政治文化)あるといえよう。
このことが、簡易的にまとめると、スペイン語圏ラテンアメリカ諸国(メキシコ、グァテマラ、エル・サルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、キューバ、R.ドミニカ、プエルト・リコ(米領)、パナマ、コロンビア、ベネズエラ、エクアドル、ペルー、ボリビア、パラグアイ、ウルグアイ、アルゼンチンおよびチリ)の独立に影響し、スペイン語を母国語とする19ヶ国が存在する背景であるということである。
それに対して、ブラジルが大コロンビアのように分裂しなかったのは、ポルトガルにおいては、国家が切れなかったからである(ナポレオンの侵略によって、前記王らが、リオ・デ・ジャネイロへ移動したことが大きい)。
https://www.youtube.com/watch?v=b_Pidy0uwYU&t=16s
https://www.youtube.com/watch?v=tNwMo-eB8rQ
https://www.youtube.com/watch?v=V-umzMf5Dw0
https://www.youtube.com/watch?v=HX-VCkWrFV8&t=7s
https://www.youtube.com/watch?v=Ma6z6pT7ZW0&t=794s
ボゴタ市内のボリバル広場が勤務後の夕刻で写真写りが暗く、鮮明でなかったので、無料のPixabayで代用した。https://pixabay.com/photos/statue-flag-sculpture-monument-6069747/ ↑
フランス革命(1789年)とは:王や特権身分ではなく、市民が主権を持つ社会を目指した革命である。
革命前の社会は、王(絶対王政)と貴族・聖職者が特権を独占で、大多数の民衆(第三身分)が重税を負担し、身分によって生まれながらに不平等であった。
啓蒙思想とは:「理性によって社会を合理的・公正に作り直そう」という思想。
代表的思想家として、ルソーの主権は人民にある(人民主権)、モンテスキューの権力は分けるべき(三権分立)およびヴォルテールの言論・思想の自由がある。
革命の基本理念(標語)
自由・平等・博愛(友愛):
自由:思想・言論・信仰・職業の自由
平等:法の前の平等(身分特権の否定)
博愛(友愛):市民同士が支え合う社会
共和とは何か?:世襲の王ではなく、人民の合意で政治を行う体制。
王政 → 否定
主権 → 国民にある
法と憲法による統治
フランス革命は王政を倒し、共和政の原理を世界に示した
歴史的意義(超重要)
近代民主主義の原点
人権思想(人権宣言)の確立
世界各地の憲法・独立運動に影響
ひとことでまとめると、『理性と市民の力で、自由で平等な社会を作ろうとした革命』 ↑
トルデシリャス条約:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%A3%E3%82%B9%E6%9D%A1%E7%B4%84 ↑
スペインのレコンキスタに関する記述は、筆者がNoteに投稿した『スペイン🇪🇸料理の一つであるパエリア🥘のルーツ-ヨーロッパの中でイスラム文化(稲作・灌漑技術)の影響を受けた唯一国-』 にある無料資料をダウンロードしていただきたい。https://note.com/kentaro_tomita/n/n48e8376039ff ↑
スペイン植民地はもともと副王領ごとに強い分断構造であり、中央集権的な「アメリカ全体の首都」が存在しなかった ↑
中央アメリカ(中米)連邦共和国:中央アメリカ連邦共和国 – Wikipedia ↑