執筆者:桜井悌司(ラテンアメリカ協会顧問)
今年の10月、ベネズエラの著名な作家・政治家であるアルトウール・ウスラル・ピエトリさんから以前いただいた2冊の書籍(サイン入り)を駐日ベネズエラ大使館に寄贈しました。1冊は、彼の代表作のベネズエラの革命をテーマにした歴史小説「Las Lanzas Coloradas」(赤い槍、1931年発行)でもう一冊は、日本の俳句からインスピレーションされた「Manoa」という本です。 石川成幸駐日ベネズエラ・ボリバル共和国特命全権大使から鄭重な感謝状を受け取りました。
アルトウール・ウスラル・ピエトリさん(Arturo Uslar Pietri、1906~2001)と言っても、日本では、ほとんど知られていない人物ですが、ベネズエラやラテンアメリカでは知名度の高い方です。日本語のウイキぺディアで検索すると彼の業績が出てきます。それによりますと、「20世紀のベネズエラで最も著名な人物の一人。彼は作家かつ知識人であり、また教育者、ジャーナリスト、外交官、政治家、官僚として大きな業績を残した。」となっています。政治面では。上院議員、文部大臣、大蔵大臣、内務大臣を歴任しており、1963年には、大統領候補にもなりました。文学面では、ベネズエラを代表する作家として、代表作は、「エル・ドラドへの道」(El Camino de El Dorado)、「赤い槍」 (Las Lanzas Coloradas)を執筆しました。1972年には、ミゲール・デ・セルバンテスヒスパニック系アメリカン・ジャーナリズム賞、1990年には、スペインのアストゥリアス皇太子賞(日本の村上春樹も2023年に受賞)、1991年にはベネズエラを代表する国際文学賞ロムロ・ガジェゴス賞を受賞しています。
私が41年間勤務したジェトロでは、有力者招へい事業というプログラムを実施していました。外国人有力者を日本に招待し、日本をより良く理解してもらうことを目的とするものです。大学時代にスペイン語を専攻し、入会1年後に、マドリード大学に研修のため派遣されたこともあって、スペインやラテンアメリカ関係の要人やジャーナリストのアテンドは私の担当でした
確か、1971年頃だったと思いますが、ベネズエラの有力紙のEL NACIONAL氏のディレクターのウスラル・ピエトリ氏をジェトロで招へいすることになりました。カラカス事務所からの連絡によりますと、ものすごく偉い人なのでアテンドにはくれぐれも手抜かりのないようにとのことでした。訪日期間は、10日間くらいで、イサベル夫人と同伴でした。日本の国会、政府、財界の要人に加え、京都等見学などのプログラムを作成しました。京都では、宮内庁に依頼して桂離宮も見学しました。最初は、高齢でもあり、とっつきにくくうるさそうな人物という印象を持ちましたが、徐々に打ち解け、これは驚くべき教養と見識の持ち主であることがわかってきました。イサベル夫人は、エレガントで穏やかな淑女でした。
滞日中のいくつかのエピソードを紹介します。
最初は、「俳句」にまつわる話です。滞在中に英語で書かれた「俳句」や「和歌」の本を入手したいという。私は、不思議に思い、何故「俳句」の本を入手したいのですかと尋ねたところ、「俳句」はシンプルで、かつ高度な文学であるので大いに関心を持っているということでした。日本滞在中には、時間がありませんでしたので、帰国後、何冊か俳句・和歌関係の書籍を購入して、送付したところ、大いに感謝されました。お礼に彼の方から、上記Las Lanzas ColoradasとEl Camino de El Dorado(エル・ドラードへの道、1947年)の2冊をサイン入りで送られてきました。
その後、「MANOA」という詩集が署名入りで送られてきました。この詩集は1973年に出版されましたが、内容を見ると、日本の「俳句」や「和歌」にインスピレーションを得たと思われる詩がたくさん掲載されていました。俳句や和歌の本を読むだけではなく、そこからヒントを得て、自分の詩作にとりこむという姿勢は驚きでした。作品をつくるという実践が伴っていたのです。当時は、日本文学は、川端康成が1968年にノーベル文学賞を獲得したとは言え、現在のように広く世界に普及していた時代ではない時に、日本の俳句や和歌に関心を持つという知的好奇心の高さは、驚嘆に値するものでした。
第2のエピソードは、買い物にまつわるものです。有力者を案内すると当然ながら買い物にも同行します。銀座のミキモトパールに行きたいということでしたので、早速案内したところ、イサベル夫人のために高価な真珠を米国の銀行小切手で購入されました。お店も銀行小切手に慣れていないと見えてニューヨークに確認していました。また京都では、龍村美術織物でこれまた高価な絹製品を購入されました。ラテンの金持ちの凄さを身近に感じたものでした。
第3のエピソードは、食べ物に関するものです。PIETRIという姓から判断するとイタリア系だと思われます。イタリア系の人々は、地中海料理で、海産物には慣れているものと思いましたが、食に対しては、かなり保守的でした。現在は、寿司や刺身は世界でも日本食ブームで人気を集めていますが、当時は、生の魚と説明すると、死んだ魚をそのまま食べるというイメージで、拒否反応がありました。私は、日本の代表的な料理である寿司や刺身を何とかして賞味していただきたいと考え、何回もトライしましたが徒労に終わりました。Pescado crudo、Crudoと聞いただけで、たちどころに、Noという返事が来たものです。
帰国後、1975年には、「El Globo de Colores」という作品を発表し、スペイン、イタリア、ギリシャ、日本、フランス、ニューヨーク、イスラエルへの文化散歩的な旅行記を執筆されています。残念ながら、その現物を入手していませんので内容はわかりませんが、当時の日本旅行についても書かれているものと勝手に想像しています。
その後、調べて行くと、USLAR PIETRI氏は、とてつもない人物であることがわかってきました。若き頃、パリで、ノーベル文学賞受賞者であるグアテマラの著名な作家であるMIGUEL ANGEL ASUTRIASや キューバのJORGE CARPENTIERと親交を結んだりしました。またベネズエラの石油産業についての考察した論文や記事を発表したり、小説家としてもジャーナリストとしても、前述のように内外の著名な賞を受賞しています。
スペイン、イタリア、イスパノアメリカの英雄と言えば、「文と武を兼ねる人」とか、「万能の人」とか「知の巨人」的な人が多いのですが、ARTURO USLAR PIETRI氏も「知の巨人」の一人と言えると思います。同氏のアテンドを通じて、ベネズエラ要人の奥深さ、教養の高さを学びました。同氏は、2001年、94歳で生涯を閉じましたが、彼のような高度な教養人がベネズエラを率いていたら、今日のベネズエラはどう変わっていたのだろうかと今の現状を見て、ふと想像する次第です。

寄贈した2冊の本とArturo Uslar Pietri氏の自筆のサイン

Arturo Uslar Pietriの写真
2021年8月に下記のレポートを執筆しましたので、ご関心のある方はご覧ください。
「ラテンアメリカの著名な小説家・詩人たち」
以 上