連載エッセイ217:渡邊裕司 「生贄のゲリラ」 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ217:渡邊裕司 「生贄のゲリラ」


連載エッセイ214

「生 贄 の ゲ リ ラ」

執筆者:渡邊 裕司(元ジェトロ・サンパウロ所長)

米ソ冷戦さなかの1967年10月8日、ボリビアで武力革命をめざすチェ・ゲバラの一隊が政府軍特殊部隊に包囲され事実上壊滅、チェは負傷して投降した。翌9日衝突地点に近いイゲラ村で処刑され10日には移送先バジェ・グランデ市マルタ病院洗濯場で遺体が世界に向けて公開された。写真誌LIFEで見るチェは持病の喘息発作に悩まされながらの過酷なゲリラ活動を物語るかのように痛々しい。汚れ損耗した戦闘服を纏い髪は伸び痩せてそこにはかつてのキューバ革命の栄光の面影は微塵もない。武闘路線を放棄したボリビア共産党書記長の「日和見」、本来革命運動の中核を担うべき農民・労働勢力の無関心と離反、ゲリラを支援する地下組織網の綻び、ベトナム・ゲリラ戦から帰還した米軍事顧問グリーン・ベレーのテコ入れで攻勢に出る政府軍・・・前衛・後衛・本隊の3部隊で成るゲリラ50名有余はゲバラ率いる本隊の投降で継戦不能となりここに1年近くに及んだゲリラ戦は革命運動の萌芽も見ることなく終わりを迎えた。

そのゲリラ掃討作戦の最前線指揮官の一人であった Gary Prado 当時小隊長(陸軍大尉)を最近、サンタクルスに訪ね話を聴いたのが私の長年の友人である同市在住日本人実業家・島袋正克氏。今、静かに退役生活を送る将軍(退役陸軍中将)は昨年6月、320頁の生々しい貴重な回想録「La Guerrilla Inmolada」を豊富な記録写真と共に世に出し私も島袋氏を通じてこれを一読する機会を得た。同氏とは私がペルーから帰任する2003年の4月にボリビア東部Valle Grandeに近い Selva 奥深くゲバラゆかりの地を訪ねたことがある。その時の記憶も交えプラド将軍の回想録にある特に興味深い点を主体に紹介する。

そのタイトル「生贄にされたゲリラ戦士」とは一体どういう意味なのか。チェがボリビアでゲリラ戦を組織するためキューバを去ったのは「カストロが自己の権力維持のためにチェをスケイプゴートにしたのだ」と著者は指摘する。もっと平たく言えばチェは盟友カストロとの権力闘争に破れ革命に捧げる最期の場を求めて国を去ったと言うのだろう。



G.プラド著「生贄のゲリラ」表・裏

<チェはルンファルド>

本論に入る前にチェのこと。ゲバラが苗字でチェが名前だと言う日本人は結構いるがそうではない。愛称である。本名は Ernesto Rafael Guevara de la Cerna ・・ゲバラが父方の、後者が母方の苗字。日本ではゲーバラとゲにアセントを置くが見ての通り Guévara ではないのでゲバーラとバを強く言うのが正しい。名前はどちらか好きな方を使うから短くErnesto Guevara を名乗るがその間にある “Che” はあだ名。由来はラプラタ流域方言の lunfardo。親しい仲間うちの呼びかけ、驚き、注意喚起などに頻繁に使う間投詞なのだ。昼時、大衆食堂にでも入ればこのチェを耳にする。アルゼンチン生まれのゲバラが連発する「チェ!」を面白がったキューバ人が親しみを込めてそう呼び始めたのだと思う。

チェは1966年11月3日、マドリッドから空路サンパウロを経由し Pacho、Rubio の同志2名とラパスに入った。しかし自分のラプラタ訛りは隠せない。万が一のリスクに備え同じ方言を使うウルグァイ人になりすまし実業家 Ramón Benítez 名義偽造旅券で表玄関から堂々入国、ホテル「コパカバーナ」にビジネス客よろしくチェックイン。危険な行動に見えるがそれがベストと判断する理由があったのだろう。ラパスの支援地下組織と接触後、コチャバンバ→サンタクルス経由で南下、東南部カミリに近いニャンカウアスー川畔のとある農場付近に拠点を構築する。あの有名な「ゲバラ日記」はそこで活動を開始した11月7日に始まっている。

話を戻すとルンファルドは方言というよりは20世紀初頭からブエノスアイレスに大量に流入したイタリア移民の影響を受けた隠語、訛りという方が正しいか。物凄い数の語彙がありそれだけの辞書もある。殆ど忘れたが例えば chica はmina、dineroは guita・・特に若者同士の早口隠語会話は外国人が聴いても分からない。ルンファルドは名詞、形容詞でもあり Habla lunfardamente と言えばラプラタ流に話すとなる。 隠語もさることながらここのスペイン語はイタリア語特有の歌うような抑揚に特徴がある。ラプラタ河対岸ウルグァイの Radio Colonia は毎朝、天気予報をブエノスアイレスに向けて流す。¡Hoy la temperatura máxima diez grados y la sensación térmica zero grado! ・・・

あの小気味よいイタリア風?スペイン語を聴くと、さあ今日も1日が始まるぞという気持ちになったものだ。もうあれから40年の歳月が流れたが今も当時を懐かしく想い起す。

ゲバラ姓はスペイン・バスク系という。スペイン移民は貧しかったガリシアやバスク地方の出身が多い。私が1980年代アルゼンチンに駐在した当時の軍事政権に海軍から入閣したゲバラ(海軍少将)という海洋資源庁長官がいた。そう多くある名前じゃないのでひょっとすればチェ・ゲバラの親戚じゃないかなどと日本人仲間で勝手な憶測。あるパーティーで(よせばいいのに親しくもない)大臣に直接、訊いた人がいた。すると「違うよ、彼はブェノスアイレス出身だが自分はメンドサ生まれだ」と。後で知ったがゲバラ姓はバスク系人が多いことでも分かる通り結構ある名前だった。チェをロサリオ出身と紹介する資料も日本には多いがこれも違う。ロサリオは両親が北部旅行から首都への帰途、産気づいた母が偶々、最寄りのロサリオ市内の病院で出産した出生地。出身地は正しくは首都ブエノスアイレス、チェはその豊かな中流家庭に生まれブエノスアイレス大学医学部を卒業した。

チェの偽造旅券

<運命のエル・チューロ>

チェが最後に日記をつけた1967年10月7日の翌8日正午過ぎ、農民からのゲリラ目撃通報で政府軍特殊部隊3隊がイゲラ村近くEl Churo渓谷にゲリラ部隊を包囲、激しい戦闘となった。迫撃砲、機銃も装備し数でも圧倒する政府軍は次第に包囲網を狭めゲバラ隊17名はチェと Willy の2名が投降、Antonio と Arturoを失なう。特殊部隊の損害戦死4・負傷4。このエル・チューロの戦闘でゲリラの組織的活動は事実上終わりを迎え、この直後のゲバラ最期の様子はチェを拘束したG.プラド将軍(当時特殊部隊小隊長)の回想に詳しい: 「隊長!ここに2人います!」・・兵の叫びにじっと藪に身を潜めるゲリラに駆け寄ると背の高い一人は「チェ・ゲバラだ」と低い声で名乗る。両眼上の突起、左手甲の傷跡は本人の身体特徴に酷似。続いて「Supongo que no me irán a matar ahora・・ Valgo más para ustedes vivo que muerto(今、私を殺さないと思うが、生かした方が貴方達には価値があります)」。初めて聴くゲバラの肉声は思いがけない命乞いの言葉・・世界に名を馳せたあの英雄も戦場の死を恐怖する普通の人間に還るのだろうか。チェは出血は少ないが右脚ふくらはぎに銃創、弾丸は脚内で止って貫通せず、骨の損傷認めず。今、医者と医薬品がなく手当のすべがない、君は確か医者だね?と言うと「違う、革命家一筋だが医学知識はある」と応じ、タバコをすすめるとこの銘柄はマイルドじゃないからいらないと。

陽が落ち作戦中断、ヘリを呼びイゲラ村前線基地に帰還。捕虜2名は小学校内の別々の部屋に収容し見張り。村長の娘に頼みご飯、パパ、肉の夕食を2人に与えた。押収したチェの所持品:腕時計ローレックス2個、M1ライフル1、9mm拳銃1、ゲバラ日記、書類、本2冊、ボリビアペソ・米ドル紙幣入り財布、ナイフ、パイプ、35mm12枚撮り未現像フィルム2巻、卵4個入ったアルミ弁当箱、背嚢など。銃は戦闘で機関部被弾破損し使用不能。時計は6月に戦死したTuma の、もうひとつはチェのもの。後で見分けがつくようにとチェは小石で自分の時計に十字の印をつけ私に保管を頼んだ。前者は前線司令官Miguel Ayoroa少佐に渡しチェの時計は自分が預かり1983年キューバとの国交回復後、遺族に届けるようキューバ領事に依頼したところある日、ハバナ政府から真新しいローレックスが私宛てに届いたのには驚いた。


エル・チューロで案内人と一緒に撮影した筆者

<処刑>

一夜明け翌9日午前7時前、2小隊で昨夕中断したエル・チューロ掃討作戦を再開させ、自分はバジェ・グランデ連隊司令部からヘリで来る連隊長 Joaquín Centeno Anaya 大佐とCIA要員1名の到着を待った。ヘリは何度か往復し捕虜と戦死者をV.グランデに移送する手はず、CIA要員はチェの押収文書を注意深く写真撮影した。大佐らとエル・チューロ視察後、私は現地に残り大佐らは結果を連隊司令部に連絡すると言ってイゲラに戻った。この索敵でゲリラ3名 Pacho、Aniceto、Chinoを拘束、残る10名は夜間に包囲網を抜け敗走した明らかな形跡があった。作戦が終了しイゲラ村近くまで戻ると前線司令官ミゲル・アヨロア少佐からつい先程正午頃、軍上層部からの命令で捕虜2名チェとウイリーは学校で処刑された、とだけ短く伝えられた。予想もしなかった結果に言葉を失い茫然と立ち尽した。学校にはこの2日間で倒れたゲリラ7名の遺体がチェを一番奥にして横たわっていた。

チェの死顔は歪み怒りに狂い口は開いて迷走するかの様な視線を向ける。対して別室の政府軍兵士の戦死体は眠るように安らかな表情を浮かべた。チェの苦痛に歪む顔を隠すため自分のハンカチを下顎から頭部にかかて包み上げ縛ってやった。まるで歯医者の手当てみたいと冗談を飛ばした者がいたが誰も反応しなかった。その遺体はヘリの外部車輪にしっかり留められて飛び立ち深い山の中に消えた。翌10日、René Barrientos大統領とAlfredo Ovando軍最高司令官が今回の戦果を賞賛するためイゲラに別々に来た。統合参謀本部は検死書で8ヵ所の銃創を示しチェは戦闘で死亡したと声明、イゲラ村での出来事との矛盾が拡散し始めていた。戦闘で被弾したのは右脚1ヵ所だから残る7発は拘束後に受けた致命傷ということになる。バジェ・グランデに戻ると多くの内外報道陣が詰めかけイタリア誌のピエリニ記者などは私にチェを殺したのは貴方か、と酷い質問をしてきた。自分は前線の一兵士であり死刑執行人じゃないと怒りで応えたものだ。名誉のためにも上官には私の立場を明確に説明して頂くように頼んだ。

然し時間が経つにつれ真実が理解された。私がチェ殺害の報復らしき襲撃の対象には全くなったことがない。そのことが私が下手人ではないということの何よりの証拠だった。1968年、軍からリオデジャネイロ参謀大学に留学した時、同僚のドイツ軍少佐が何者かに暗殺された。ブラジル軍・連邦警察はチェ殺害実行犯としての自分と間違えて殺されたのではないかと捜査した。後にこのドイツ士官は第二次大戦従軍によりユダヤ系組織に狙われた可能性もあるとされたが犯行声明もなく事件は未解決。次は1976年、駐仏大使に転出した前出のセンテノ・アナヤ将軍(V.Grande連隊長、当時大佐)がパリ市内で何者かに殺害されたのだ。これこそ地下組織「コマンド・チェ・ゲバラ」による報復の犯行ではないかとの強い憶測が流れた。

投降直後のチェ

<誤算>

「ボリビアを選んだのは誤算だった。選択は私一人ではなく複数の同志と決めた。中でも強く主張したのはボリビア人同志達」・・投降した8日夜、チェはプラド隊長と交わした最後の会話でその判断ミスを認めた。この頃のチェは農民がゲリラに同調しないという趣旨のことを日記に記している。あのチェを以ってしても最貧国ボリビアに武装蜂起が起きなかったのは何故か・・

ボリビアを南米大陸の革命発火点のターゲットに置いたことだけでなく、あるいは武力革命自体が時代の流れにもはやそぐわなかったのかもしれない。農民カンペシノスはゲリラに同調するどころかその動向を逐一、政府軍に通報し鉱山など労働勢力や左翼も武力革命に参加することはなかった。その理由をプラド将軍は①農民は外国人をそもそも信頼しない ②この東部低地には1952年農地解放の対象となったラティフンディオ(大土地所有制)は存在せず、農民は自作農で生産手段の農地を所有する③貧しくも実物経済に満足する生活を送る④ケチュア語を操りカリスマに富み大衆人気を博すレネ・バリエントス大統領(1964‐66年軍政首班、1966-69民選大統領)を尊敬し農民が反政府勢力にはならない、と断言する。

軍人大統領には珍しいこの空軍出身のバリエントスの存在は大きかった。左派パス・エステンソロ政権副大統領時の1964年、陸軍のアルフレド・オバンドと謀ってクーデターで軍政首班へ、のち1966年民選大統領。大衆の人心把握に長け反体制弾圧よりはむしろ独特の個性を生かした支配を強め、巧みなポプリスモを駆使して地方農村部で支持を拡げた。1969年、地方遊説のバリエントス搭乗ヘリが墜落して死亡、現場の不自然な状況から暗殺説が根強く流れ大統領と政治行動を共にし、この後すぐ後継大統領になるオバンド軍最高司令官(1969-70年大統領)の陰謀説もまことしやかに流布された。

毛沢東の「抗日遊撃戦争の戦略問題」(1938年刊)は所謂ゲリラ戦の要諦を説く史上初の手引き。チェはこれをもとに「ゲリラ戦争」を著し①人民は強大な正規軍に勝つことができる②革命の条件は非正規軍が創り出すことができる③農村が武力闘争の舞台となる、など農民をゲリラ化し都市を陥とす革命理論を指南した。しかしボリビアはバチスタ独裁時代のキューバとは多くの点で事情が異なった。頭で考える程、簡単ではなかったことは結果を見ての通りである。チェの「誤算」から四半世紀以上が経過した1997年、軍が極秘裏に埋葬したチェの遺骨が発掘されチェは家族とかつての盟友カストロの待つハバナに帰った。しかし世界は東西冷戦が終わり旧社会主義圏が競って市場経済に参入し、自滅するはずの資本主義体制は地球規模の繁栄を謳歌する新しい時代へと変貌、そこに見たのはチェの夢とは裏腹の現実であった。

チェの遺体公開洗濯場には今も訪れる人が絶えない 。その前での筆者。


バリエントス大統領

<革命に殉じた日系青年>

ゲリラ部隊はアルゼンチン人3名(うち女1名は東独国籍タマラ・ブンケ:通称タニア)、キューバ16、ペルー3、フランス1(記者レジ・ドブレ、拘束服役後釈放)・・地元ボリビア30という外人混成部隊。殆どがキューバで軍事訓練を受けボリビア共産党PCB極左派も。このボリビア人の中に一人の日系青年がいたことはあまり知られていない。Fredy Maemura(26才)、ボリビア国籍だが鹿児島移民の両親が現地日本領事に出生届をしていれば日本国籍も有する日本人でもある。二世は普通、この二重国籍のケースが多く法理論的には「日本人が外国政府を武力で倒す非合法活動に加わる」ことを意味し、場合によって国家間の微妙な外交問題にもなり得る。

1959年、フレディーはキューバ革命政府の国費留学でハバナに学びそこでチェの革命思想に共鳴、軍事訓練後の1966年、帰国しゲリラ部隊に参加した。ゲバラ日記にある「医者」という人物があるいはフレディーかもしれないが確信がない。彼についてはチェの日記でもプラド将軍回想録でも何故かまったく触れられていない。隊員に Chino がいたがこれは中国系ペルー人で日系フレディーのことではない。ゲリラ部隊の終焉近い1967年8月、エル・チューロの敗北の2か月前、フレディーはサンタクルスに近いセルバでカンペシノスの密告によって政府軍に追われ短い生涯を終えた。

祖国の革命に身を投じたフレディーの生涯はオダギリ・ジョー主演映画『エルネスト』(2017年阪本順治監督)に描かれている。その姉らは2006年に「El Samurai de la Revolución」を、2008年の日本語訳『革命の侍 チェ・ゲバラと戦った日系二世フレディ・マエムラの生涯』(長崎出版)に続き、2009年にはポ語訳版を出した。

このストーリーに近い話は世界最大の日系社会を擁する中南米ではそう珍しくはない。かつての軍事政権に抵抗した日系左翼活動家のケースは1964年以降のブラジル軍政時代を始め少なくない。小生がいた1980年代のアルゼンチン軍事政権下でも夥しい数の所謂「行方不明者 desaparecidos」が出た。左翼勢力は地下に潜行して都市ゲリラ化し誘拐・身代金奪取、テロで反政府武闘を展開する。然し軍の正面作戦でゲリラ掃討は無理と見た政府はゲリラと同じ手口で反政府分子の誘拐を実行し数万を拷問殺害して壊滅を図った。最後は鎮圧はしたが多くの行方不明者が発生、帰らざる息子、娘の消息を求める母親達 Madres de la Plaza de Mayo が大統領府前広場で無言の集会を開く光景は世界の人権活動に訴える格好の場となった。日ア二重国籍を有する二世も数名が行方不明に、在ア日本大使館は家族の要請で何度も消息を軍政当局に照会するが応えは決まって「調査したが関連する情報は得られなかった」。得られないはずである。ナンバープレートを覆い隠し尾行する公安車 Ford Falcon にひとたび拉致されれば二度と帰ることはない。監禁拷問、殺害され追跡不能の方法で処理されるからだ。軍政責任者はのちの裁判で「あれは(弾圧ではなく)戦争だった。国防を担う軍部の責任から実行したものだ」と正当化したが歴史に大きな汚点を残すことになった(終わり)。


日系ゲリラ戦士フレディー


標高1,500mイゲラ村広場のゲバラ像の前で撮影

ゲバラ関連の記事については、連載エッセイ179の「エルネスト・チェ・ゲバラの最後の日々」https://latin-america.jp/archives/54935もご覧ください。