連載エッセイ281:桜井悌司「支倉常長にまつわる話」 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ281:桜井悌司「支倉常長にまつわる話」


連載エッセイ281

支倉常長にまつわる話

執筆者:桜井悌司(ラテンアメリカ協会常務理事)

富田眞三さんが「慶長遣欧使節の謎」というタイトルで連載エッセイ264 、273、274と3回にわたり執筆された。

https://latin-america.jp/archives/59354
https://latin-america.jp/archives/59615
https://latin-america.jp/archives/59624

それに触発され、私も支倉常長との遭遇を簡単に紹介したい。

支倉常長と言えば、仙台藩主伊達政宗が派遣した慶長遣欧使節団(1613年~20年)の副使としてスペイン国王フェリペ3世、ローマ法王パウロ5世に謁見したことは誰もが知っている。振り返ってみると私の人生において、節々で支倉常長といくつかの縁があったことに驚かされる。

「メキシコ駐在時代」(1974年~77年)

メキシコシティのセントロにあるメキシコ国立芸術院(Palacio de Bellas Artes)やラテンアメリカ・タワーのすぐ近く、ソカロに向かうフランシスコ・マデロ通りに入ったところにサンフランシスコ寺院がある。この寺院は、16世紀に最初に建設されたものだが、支倉常長をはじめ団員の多くが洗礼を受け、カトリック教徒になった教会と言われている。

その隣に、「タイルの家」と呼ばれるモザイクタイルで覆われた美しい建物があり、現在サンボルンスと呼ばれるレストラン・ショップになっているが、その家に支倉常長が宿泊したと言われている。駐在時代には日本からのお客の案内でたびたび紹介したものだ。

アカプルコは風光明媚な観光地でそのビーチで有名であるが、慶長遣欧使節団が最初に到着したアメリカ大陸の港である。そこには、それを記念して、支倉常長の銅像が建てられている。アカプルコには頻繁に出かけたこともあり、何回かその銅像を拝見する機会があった。

支倉が洗礼を受けたと言われるサンフランシスコ寺院  タイルの家

「セビリャ万国博覧会時代」(1989年~92年)

1992年4月から10月まで、スペインのアンダルシア州の州都であるセビリャ市で、コロンブスのアメリカ大陸到達500周年を記念する万国博覧会(一般大型博覧会)が開催された。私は担当課長として、4年間、日本館の建設、運営、解体まで従事した。

博覧会のテーマは、「発見の時代」であった。堺屋太一総合プロデユーサー、平野繁臣展示プロデユーサーの発案で、日本館は、スペインの発見の時代とほぼ重なる安土桃山時代に焦点をあてることとし、織田信長の安土城の5~6層を再現する展示を行った。制作費に3億円かかったこの作品は、終了後解体され、日本に輸送され、現在は滋賀県の安土町の「織田信長記念館」で見ることができる。

日本館の全容(設計安藤忠雄氏)    安土桃山時代を象徴する安土城の上層部の展示

その他の展示については、その時代にヨーロッパに派遣された「慶長遣欧使節」と「天正少年使節」を大きなパネルと展示物で紹介することになった。「慶長遣欧使節」は太平洋を渡る東周りのルート、「天正少年使節」はインド洋を通過する西回りであったため、世界地図上で2つのミッションのルートを点滅させる大きなパネルを制作した。支倉常長を紹介するために、仙台市博物館が所有する展示物を借用またはレプリカ作りの必要が生じたため、当時の仙台市長に面談、様々な便宜供与をお願いし、快諾をいただいた。サムライ姿の支倉常長の模写絵画、常長がローマで受け取った「ローマ公民権証書」、常長が月ノ浦から乗船したサン・フアン・バウテイスタ号の模型等々である。その他の展示品としては、火縄銃の種子島のレプリカ、サムライの鎧兜、南蛮屏風等があった。

支倉常長像          サン・フアン・バウテイスタ号の模型

セビリャ市には、博覧会の事前準備、会期中、事後処理で数回に分け、延べ1年2か月滞在した。当時セビリャには、当地に長く住んでおられる永川玲二先生がおられた。先生はシェクスピアーの研究や著作「アンダルシア風土記」で有名な方だが、セビリャ大学で日本語を教えておられた。たびたびご自宅にお邪魔したが、セビリャから約15キロ離れたところに、コーリア・デル・リオという小さい町があり、そこにはハポン(Japon、日本)という姓をもつスペイン人がたくさんいるということを先生から伺った。早速、コーリア・デル・リオに出かけたところ、グアダルキビル川に面して支倉常長の銅像が立っていた。その後、コーリアには何度も出かけ、町役場も訪問したが、確かに、「ハポン」という苗字の人がたくさんいた。スペイン人の名前は、最初に、ホセとかカルメンという名前、その後父方の苗字、その後に母方の苗字と続くのだが、その町には、ハポン・ハポンという苗字の人(父方、母方も両方ともハポン姓の人)、も結構いた。話を聞いてみると、支倉常長のミッションがセビリャに到着し、そこからマドリード経由でローマに向かうことになるのだが、ミッションの数が多すぎることもあって、一部の同行者をセビリャに残して行ったのだという話だが真相はわからない。苗字も持たない身分の低い人が残されたのだと思われるが、彼等は、日本を表す「ハポン」という苗字を名乗ったのだという。

博覧会は、友好を目的とするので、私は、これらハポンさんの町、コーリア・デル・リオを日本館の特別ゲストにしたいと考えた。そこで、ジャパン・デーの式典やパーテイの際には代表者を招くことにした。また日本館の展示には、前述のように支倉常長の慶長遣欧使節と天正少年使節を紹介する大きなパネルがあったが、万博終了後、財産処分する際に、コーリア・デル・リオ町役場のトップに話したところ、是非とも寄贈して欲しいということであった。博覧会終了後、そのパネルを同町に寄贈し、町議会が行われる会議室に飾ってもらうことになった。

コーリア・デル・リオにある銅像  アカプルコにある銅像

「ミラノ駐在時代」(1996年~99年)

支倉常長はイタリアを訪問し、ローマでは法王パウロ5世にも謁見している。イタリアでは支倉常長を意識したことはなかったが、ある日、偶然にも驚くことがおこった。日本とイタリア間で、定期的に貿易・投資・ビジネスについて協議する「日伊ビジネスグループ」の会議が毎年開催されている。1989年に開始され、日本とイタリアで交互に開催される。1996年には、投資誘致のテーマでプレゼンテーション行ったが、1998年10月は、ローマ開催であった。会期中にイタリア側主催のレセプションが、記憶が定かでないが、ボルゲーゼ宮殿かクイリナーレ宮殿で行われた。そのサロンに下記の支倉常長のサムライ姿の絵画が掲げられていたのである。この絵は、イタリアの画家アルキータ・リッチが支倉ミッションの世話係だったボルゲーゼ枢機卿の命で制作されたと言われている。縦196.0cm、横146.0cmの巨大な画面に等身大で描かれたものだ。この絵を最初に見たのは仙台市博物館で、模写された絵画であった。まさに予期せぬ形でオリジナルを見ることができたのである。まさに感激の瞬間であった。

支倉常長の銅像は、他にもキューバのハバナ市やイタリアのチヴィタ・ベッキア市にあるがこの2つの銅像は残念ながら見る機会に恵まれなかった。思えば、17世紀に日本が「慶長遣欧使節」と「天正少年使節」という2つのミッションをヨーロッパに派遣したことは驚くべきことで、数々の苦難が襲い掛かったに違いない。支倉常長のヨーロッパとの通商関係樹立を目的としたミッションも、失敗に終わるが、ロマンあふれるストーリーである。

サムライ姿の支倉常長像     支倉常長に与えられたローマ市公民権証書