連載エッセイ 578:冨田健太郎「ペルー鉄道(南東線)およびマ チュ・ピチュの繁栄とその終焉」 | 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ 578:冨田健太郎「ペルー鉄道(南東線)およびマ チュ・ピチュの繁栄とその終焉」


連載エッセイ 578

ペルー鉄道(南東線)およびマチュ・ピチュの繁栄とその終焉

執筆者:冨田 健太郎(信州大学 工学部内 アクア・リジェネレーション機構)

要 約

筆者は、エクアドルでシニア海外協力隊として活動期間中(2014年3月下旬-2016年3月下旬)、任国外旅行制度を活用して、2014年11月9日-16日までペルーのクスコ(Cusco)を訪問した。訪問目的は、ラテンアメリカ国際土壌学会(Sociedad Latinoamericana de la Ciencia del Suelo: SLSCに参加・ポスター発表であり、その後、同学会研修旅行での『モライ(Moray)遺跡』と『マラス(Maras)塩田』に続き、最後は念願の『マチュ・ピチュ(Machu Picchu)遺跡』を訪問した。学会の話は割愛するが、クスコからマチュ・ピチュ遺跡まではペルー鉄道(南東線)を利用した。そのときの車窓光景として、アンデス高地での広大なトウモロコシ栽培地帯やアマゾン河の支流の一つであるウルバンバUrubamba等の写真の他、短編動画もまとめた(BGMなしで約4分)。そしてマチュ・ピチュ遺跡は謎に満ちている部分は多いが、インティ・ワタナ、水鏡(Espejo de agua)、神殿等の写真紹介に続いて、繁栄と終焉(しゅうえん)についてまとめている。スペイン人によるインカ征服時代には、この遺跡は発見されず、アメリカの探検家ハイラム・ビンガム(18751956年)によって、1911年7月24日に発見された。永い眠りから覚めた遺跡と称されているが、この遺跡には悲しい物語があった(なぜ、マチュ・ピチュの町全体を焼いたのか?)。なお、マチュ・ピチュ遺跡訪問に関しては、確実に遺跡見学ができるよう(1日当たりの観光客の収容人数に制限がかけられている:4,500-5,600人/日)、クスコのアルマス広場等にある旅行会社に申し込み、ツアーで参加することである(ペルー通貨両替も含めて、米ドル新札必須)。

1.はじめに

エクアドルでシニア海外協力隊として活動期間中(2014年3月下旬-2016年3月下旬)、任国外旅行制度を活用して、2014年11月9日-16日までペルーのクスコ(Cusco)を訪問した。この目的は、詳細は割愛するが、ラテンアメリカ国際土壌学会に参加・ポスター発表を実施するためであった(ペルーが当番国で、開催場所がクスコであった)。昨年のエッセイ『中南米の古代文明とトウモロコシ』においても記述したが、同学会最終日の14日は研修旅行であり、筆者らのグループはオリャンタイタンボ(Ollantaytambo)近郊にある『モライ遺跡』と『マラス塩田』を訪問した。そして、学会のすべてのカリキュラム終了後の翌15日は、旅行ツアー(ラテンアメリカ国際土壌学会参加期間中に、昼食の時間帯を利用して、クスコのアルマス広場にある旅行会社で予約した:エクアドル等、海外旅行者は米ドル新札必須)に参加する形で、念願の『マチュ・ピチュ遺跡』を訪問した。この遺跡を訪問するに当たっては、ペルー鉄道南東線を利用する必要があり、クスコのサン・ペドロ(San Pedro)駅からオリャンタイタンボ駅を経て、終着駅であるアグアス・カリエンテス(Aguas Calientes)駅まで109kmの道のりである(図1)。同駅を下車して、マチュ・ピチュ遺跡へバスで向かったが、本稿では、写真や動画を中心とした形で、ペルー鉄道南東線(車窓も含む)およびマチュ・ピチュ遺跡の繁栄と終焉(しゅうえん)等について報じることとする。

2.クスコ

1).ペルーの訪問地

図1にペルーのクスコ州にあるクスコ市、オリャンタイタンボ近郊およびアグアス・カリエンテス地区にあるマチュ・ピチュの遺跡の所在地をそれぞれ示す。なお、このマチュ・ピチュの歴史保護区は南緯13°07’ 西経72°35’’に位置している。

図1 ペルーのクスコ州にあるクスコ・オリャンタイタンボ・アグアス・カリエンテス(マチュ・ピチュ遺跡)の所在地

2).クスコ
クスコは海抜3,398mの高山都市であり、前エッセイの『首都ボゴタやキトのような高山都市が形成された背景』でも報じたが、筆者にとっては史上最高海抜地であり、到着当初は高山病に苦しめられた(やがて、この地に慣れてきた)。人口は約30万人であり、ここは、かつてのインカ帝国の首都であった。このクスコでは、アルマス広場が有名であり、ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会等がある(写真1)。なお、1983年にユネスコの世界遺産に登録された。

歴史的には、黄金を求めて、スペイン人のフランシスコ・ピサロ(不明-1541年)の軍隊100名が来襲したが、火を噴く武器に、20,000名もいたインカ群はなすすべもなく敗退した。そして、ピサロはインカ皇帝アタワルパを処刑した(1533年)。


写真1 アルマス広場のラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会(左)とクスコの坂道(右), 2014

3.ペルー鉄道(南東線)

1).ペルー鉄道
1851年、首都リマ(Lima)とその郊外の港湾都市カヤオ(Callao[1]の間に最初の鉄道が開通した(南米初の鉄道)。その後、1894年にカヤオから、ペルー中部のアンデス山脈にあるラ・オロヤ(La Oroya[2]まで、アンデス山脈を越えるペルー中央鉄道が開通し、路線網を伸ばした主要路線の運営は、かつてはペルー国鉄(Empresa Nacional de Ferrocarriles SA, ENAFER)が行っており、1990年までは黒字であった。その後、収支が急激に悪化し、1999年、路線の所有は国鉄のまま30年間のコンセション(公設民営化)によって運行が民営化された(詳細は割愛)。

2).南東線
本稿では、クスコからマチュ・ピチュ遺跡があるアグアス・カリエンテスまでの南東線について解説していく。クスコ市街から離れた所にあったが[3]、始発は、クスコのサン・ペドロ駅(海抜3,398m)であり(写真2)、前記南東線(クスコ-オリャンタイタンボ-アグアス・カリエンテスまでの109km)に乗車した(本稿13.にて、短編You Tube動画のURL提示)。


写真2 クスコのサン・ペドロ駅(左:チケット売り場、右:待合室), 2014


写真3 サン・ペドロ駅で出発を待つアグアス・カリエンテス行きのペルー鉄道, 2014


写真4 サン・ペドロ駅で出発を待つペルー鉄道車内(左)と後方アップ(右), 2014

巻末の【参考文献】に記した『TBSの日曜特集・新世界紀行 世界七不思議の旅編のインカの秘都マチュ・ピチュ』の放送では、黄色とオレンジのツートンカラーの汚れた客車であったが、民営化されてからか? ブルーと黄色帯の綺麗な塗装が施され、観光客にも目を引くような光景であった(写真3)。なお、写真4は綺麗な車内(左)で、出入り口には、インカの人の絵画が象徴的であった(右)。


写真5 車窓からの広大なトウモロコシ畑, 2014

この路線は、狭く険しい谷を進むため、線路幅は狭軌の914mmが採用されていた。そして、クスコからオリャンタイタンボまでは65kmである。写真5を見ても分かるように、この区間の車窓には、アンデスの渓谷の中にある広大なトウモロコシ畑が見られた。約3,000mという、高海抜用の品種であると解釈した。


写真6 オリャンタイタンボ駅でのEl Albergue Ollantaytambo(ザ・ホステルオリャンタイタンボ)の看板[4](左)とお土産を販売する女性(右), 2014

4.オリャンタイタンボ

途中駅のオリャンタイタンボ駅の海抜は2,790mであり、サン・ペドロ駅から600m下った地点である。写真6にオリャンタイタンボ駅の看板(左)と、同駅でお土産として、帽子を何枚も被って、幾つもの手提げ袋を販売しているアンデスの女性(右)が印象的であった。

この地区の人口は約11,000人である。この地区は、エッセイ『中南米の古代文明とトウモロコシ』でも取り上げたアンデネス[5]が有名である(ここは散策していない)。

5.アグアス・カリエンテス

オリャンタイタンボからアグアス・カリエンテス(終点)までの44kmは、自動車道路がないため、この鉄道でマチュ・ピチュ遺跡のある終着駅まで向かうしかないのである。鉄道は、どんどんアンデスを下っていく。線路沿いに見えるウルバンバ川は、南米の大河アマゾン河の源流の一つである(写真7)。


写真7 車窓からのウルバンバ川, 2014


写真8 アグアス・カリエンテス駅に到着した乗車列車, 2014

クスコのサン・ペドロ駅を出発して、終点までの所要時間は約3時間半であった(長旅であった)。このアグアス・カリエンテス駅の海抜は2,038mである(写真8)。クスコのサン・ペドロ駅との差は1,360m(=海抜3,398m-2,038m)であり、高山病も解消していくという構図である。

ここで、マチュ・ピチュのツアーのスタッフと合流し[6]、バスで登ってマチュ・ピチュの遺跡に向かった。なお、同遺跡の海抜は2,400mの山頂に築かれている。

写真9にアグアス・カリエンテス駅周辺に停車しているマチュ・ピチュ遺跡へ向かうバス等を示す。駅の周りにも多種多様のレストランや土産物店等が存在していた。

写真9 アグアス・カリエンテス駅周辺に停車しているマチュ・ピチュ遺跡行バス等, 2014

6.ツアーでマチュ・ピチュ遺跡訪問を申し込んだ理由

1).マチュ・ピチュ遺跡の1日当たりの収容人数

筆者が学会開催中に時間を見て、マチュ・ピチュ遺跡ツアーに申し込んだ理由であるが、同遺跡の1日当たりの収容人数に制限を設けていたからである。ツアー客であれば、優先的に遺跡内へ入れるということで、プライベート訪問は拒絶されるものと考えていたからである。この収容人数は、季節によって 明確に制限されており、年間を通じて変動するので、以下、解説していく(2025年-2026年の公式ルール)。

2).季節別の1日当たりの入場者数(収容数)
★ハイシーズン(最も混雑する時期)は最大 5,600 人/日である。

  • 例:1月1日
  • 6月19日〜11月2日
  • 12月30〜31日

この期間は観光ピークで、多くの旅行者が訪れるため上限が高く設定されている。

★ローシーズン(その他の時期)は最大 4,500 人/日である。

  • ハイシーズン期間以外の年間大部分で、観光客数が比較的落ち着く時期でも、世界遺産の保護のため一定の上限が設けられています。

3).補足ポイント(箇条書きで記す)

  • 1日合計の上限であり、これ以上のチケットは売られない。
  • 時間帯による入場枠制(例:6–7時、7–8時、…)があり、各枠の人数制限もある
  • 遺跡内の 同時滞在者数はさらに制御されており、ピーク時間帯に集中しないよう分散させる工夫がされている。

4).なぜこのような制限があるの?
マチュ・ピチュは脆弱な遺跡構造と環境にあり、観光客の大量流入による摩耗・環境破壊・安全性のリスク低減を目的としているからである。世界遺産委員会(UNESCO)の勧告やペルー文化省の決定に基づいて管理されているということである。それゆえ、ツアー客として申し込むことが安全であるということである。

7.マチュ・ピチュ遺跡の概況

1).マチュ・ピチュの発見
このマチュ・ピチュの遺跡は、ビンガムが、1911年7月24日にこの地域の古いインカ時代の道路を探検していた時、山の上にある遺跡を発見した。石の建物の総数は200にもなるという。遺跡は、宗教的施設、居住区および農地に分類される。


写真10 マチュ・ピチュの入り口(左)とその全景(右), 2014

2).マチュ・ピチュの全景
また、マチュ・ピチュが位置する保護区域、Historic Sanctuary of Machu Picchu(ペルー)は、 32,592 ヘクタール(約 325.9 平方キロメートル)という広さで登録されている。 ただし、遺跡そのもの(“都市”部分)の面積はかなり小さく、建造物が密集する範囲は 長さ約 530 m、幅約 200 m 程度という情報もある。 その後、1983にユネスコの 世界文化遺産および自然遺産(複合遺産)として登録された。写真10にマチュ・ピチュ遺跡の入り口とその全景を示す。

マチュ・ピチュとは、ケチュア語で『老いた峰』という意味であり、アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿った高い山の尾根(標高2,057m)に所在する、15世紀のインカ帝国の遺跡である。だれがいつ、何の目的で造られたのか? なぜ、廃墟となったのか?今もって謎である。ちなみに、インカ帝国のかつての首都であったクスコは、世界のへそという意味である。

インカの人々は、文字を持たない代わりにキープを使って、農業生産の記録を行っていた。この他、情報伝達の手段として、飛脚が活躍したことより、優れた情報管理国家であった。また、太陽神インティの動きを把握することが農業暦(播種・収穫)に重要であった。そのため、太陽の神殿は 天文観測の施設 としての機能を持っていた(ChatGPTの見解も含む)。

3).インティワタナ(太陽をつなぐもの)と水鏡
写真11(左)に太陽の神殿のインティ・ワタナを示す。この『インティ・ワタナ(意味:太陽をつなぐもの)』という意味の石の台の削りだされた柱は、一種の日時計だったと考えられており、全高1.8m、花こう岩の巨石を削って作られて、中央の角柱は36cm、その角が東西南北に向けている。


写真11 インティ・ワタナ(左)と水鏡(右), 2014

同写真(右)は水鏡を示す。インカの司祭が、夜間に水を張った面に映る星(星座)を観測するために使ったと考えられている。つまり、「水に星を映し、揺れない状態で観察することで、神官は天空の動きを読み取った」ということである。詳細は割愛するが、水を張ることによって、水面は振動が少なく、天頂付近の星の動きを読み取るのに適しているとされている。そして、朝日や夕日が差し込んだとき、水面の反射から角度が読めるため、至点(夏至・冬至)や分点(春分・秋分)の把握にも使った可能性があるというのである。さらに、水鏡が2つ存在する理由であるが、角度の比較・誤差を最少にし、天体観測の精度を上げるためであった。特に、マチュ・ピチュは 天文学的に計算された都市 なので、こうした遺構が散在している。これも、基本は農作物の播種・収穫と大きく関係すると考えていてよいだろう(私たちの生命の源はだからである)。

4).マチュ・ピチュ遺跡の神殿等
この遺跡は、スペインからの破壊を免れたインカの古代都市である。遺跡観光において、印象的なものを示す(写真12)。さらに、写真13が皇帝の別荘地主神殿である(2名の観光客の顔が残念)。


写真12 遺跡内の神殿(左:山頂から見た左側の神殿,右:同右側), 2014


写真13 皇帝の別荘地主神殿, 2014

8.マチュ・ピチュの繁栄

第9代インカ皇帝となったパチャックティは、世界の変革者として有名であった。インカの強敵を倒し、領土を拡大し、太陽神を国の宗教と定めた。いわば、インカ中興(ちゅうこう)の祖(そ)であった。皇帝は、クスコの本格的な町づくりを始めた。クスコ大学人類学サパタ教授によると、マチュ・ピチュは、15世紀中頃、パチャプティ皇帝によって建設された。詳細な話は割愛させてもらうが、インカの創世神話を再現したのがマチュ・ピチュであり、パチャクティ皇帝の誇りと権威を広く知らしめる都市であった。

写真14にわらぶきの屋根を示すが、小屋の下から水が流れ、マチュ・ピチュの各地へ運ばれるのである。つまり、インカは水利・灌漑に優れた技術を持っていたということである。いずれにせよ、このマチュ・ピチュは、数千人から10,000人以上が生活できたと推測されている。


写真14 わらぶき屋根の復元された住, 2014

9.スペイン人ピサロによる侵略・征服

ピサロは、前記した皇帝アタワルパを捉え、インカを征服し、クスコに入場した。ピサロは、混乱した帝国の立て直しのため、マンコ・インカ・ユパンキ(以下、マンコ二世と記す)を壊乱皇帝として即位させた。しかし、マンコ二世は、スペインのあまりの横暴さに反乱の狼煙(のろし)をあげて、クスコを見下ろすサクサイワマン[7]の砦(とりで)に留まった。ここであれば、スペイン軍の大砲の弾は届かない。これが、スペイン軍征服以来、はじめてのインカの反撃であった。実際、数万のインカ兵がスペイン軍を包囲し、スペイン軍と激しい戦いが続いた。しかし、インカの兵士の大部分は農民でもあった。長い戦いでは、収穫もろくにできず、播種もできない。しだいに多くの兵士が戦争から離れてしまったのである。

10.インカ帝国の終焉

マチュ・ピチュ遺跡の終焉前に、インカ帝国の終焉について記しておきたい。上記の事態により、マンコ二世は、クスコ包囲を諦め、オリャンタイタンボへ撤退した(クスコ北80km)。ここでも、パチャックティ皇帝がつくった砦があった。マンコ二世は、再びクスコへ戻ることを願っていた。しかし、鉄や大砲を持たないインカは、スペインに立ち打ちできる筈がなかった。

結局、マンコ二世は、クスコから300km離れたビルカバンバ(インカ最後の都となった)に逃げることとなった。ここは、インカ帝国の東の端にあった。そのとき、マンコ二世は川沿いの道ではなく、わざわざ4,000mを超える山道を選んだ(図2における赤線の矢印)。これは、スペイン軍から、川沿いにあるマチュ・ピチュを隠すためだったのである。


図2 筆者直筆によるオリャンタイタンボ、マチュ・ピチュおよびビルカバンバの位置

ビルカバンバは、現在は密林の中に隠れているが、当時は、周囲15kmほどの美しい街であったという。マンコ二世たちは、密林を切り開き、整備された都市を造った(現在、密林の中であっても、宮殿のような痕跡もある)。

このビルカバンバが、インカの最後の都であり、クスコとは全く環境の違う異郷の地で、マンコ二世たちは生きていた。

クスコを追われて36年目、既にマンコ二世は亡くなっており、その息子のトゥパク・アマルが反乱軍の指揮をとっていた。反抗を続けるインカの存在を暇(いとま)しく思っていたスペイン軍の攻撃が始まった。トゥパク・アマルは、ビルカバンバに火をつけ、アマゾンへ逃げようとした。しかし、ビルカバンバを出て2ヶ月後には、スペイン軍に見つかり、クスコに連行され、1572年に処刑された。こうして、インカ帝国は終焉したのである。

11.マチュ・ピチュ遺跡の終焉

1).マチュ・ピチュを隠したかったという説
最後、マチュ・ピチュに話を戻す。この遺跡には共同墓地があることが分かっている。ビンガムが発掘した頃は、人骨173が発見され、その内、8割以上が女性の骨であったと報告されている。僅かな骨と男女比から、いったい何の意味があるのか? しかし、その記録がないのである。

この背景は、スペインの征服により、何人かがインカの歴史を隠したとしている。実際、どの書にも、このマチュ・ピチュの記録は一切ないのである。したがって、スペイン人に全く触れることなく、80年前までじっと息を潜めていたということである。

この遺跡が発見されて以来、さまざまな説が述べられているので、列挙すると以下のようになる。

  1. 神々を祭る宗教遷都
  2. クスコと対立したインカ有力者の隠れ都市
  3. アマゾンの逃避説等

 

しかし、いずれの説にも確証はない。前記したように、いつ誰が造ったのか分からない。マンコ二世が、絶対にスペイン人の目につかないようにと願ったインカの都であったが、結局は孤立した都となってしまった。マチュ・ピチュの人々も、マンコ二世をしたって、ビルカバンバへ向かったのだろう(図2)。残された者は、神に仕えた男性太陽の処女だけであった。

2).残された男女はどうなったか?
さて、前記、残された者(神に仕えた男性と太陽の処女)はどうなってしまったのであろうか?インカの人々は、都を去るとき、わらぶきの屋根に火をつけ、町全体を焼くのが常であった。もちろん、この行為は、マチュ・ピチュにおいても実施された。つまり、住民の屋根のわらに火をつけ、都を燃やしてしまったのである。事実、このマチュ・ピチュからわらを焼いた灰も発見されている。そして、前記した太陽に仕えた神官や太陽の処女たちも、この都と運命を共にしたのであった。マチュ・ピチュで173の人骨が発掘されたことは前記したが、この内女性の骨150で、男性は23で、神に仕えた男性(神官)太陽の処女だけであった。

3).結局、マチュ・ピチュはスペイン人に知られることはなかった
スペイン人は、黄金の像が欲しいため、インカの遺跡を訪ねた。しかし、クスコの人々は、彼らの横暴な振る舞いを見ていたので、マチュ・ピチュの場所については、口を閉ざしてしまった。マチュ・ピチュは、結局、スペイン人に征服されることはなかった。その結果、400年もの長い間、霧だった影の上で沈黙の空中都市となったのである。

1911年7月24日、ビンガムによって偶然発見されて以来、眠りから覚めて、インカの人たちの反抗の歴史が語り始めたといえよう。

12.アグアス・カリエンテスからクスコへの帰途

1).マチュ・ピチュ遺跡から見たアグアス・カリエンテス駅
アグアス・カリエンテス駅から遺跡の入り口まで、バスでの往復であるが、その標高差には驚きを隠せなかった。写真15左の下の部分にアグアス・カリエンテス駅と青い客車が停車しており、右がそのアップである。


写真15 マチュ・ピチュ遺跡から眺めたアグアス・カリエンテス駅停車の青い客車, 2014


写真16 遺跡から下るバス停(左)およびアグアス・カリエンテス駅(右), 2014

2).アグアス・カリエンテス駅周辺
写真16左が遺跡から下るバス停であり、同写真右がアグアス・カリエンテス駅である。駅の左側に綺麗なレストランがあることが分かる(後方にディーゼル機関車)。ここには、マッサージもあったので、1時間やってもらった。


写真17 アグアス・カリエンテス別駅(入口とホーム内のクスコ方面の停車車両), 2014

3).アグアス・カリエンテス別ホーム-オリャンタイタンボへ
今まで示したアグアス・カリエンテス駅は、クスコからの到着ホームであり、帰路のホームは別であり、到着ホームから階段を登った上部に位置していた。写真17(左)に示すが、チケット売り場でチケットを購入した後、駅に入るというものであった(ツアーで、往時はクスコ→アグアス・カリエンテス、復時はアグアス・カリエンテス→オリャンタイタンボまで[8]を購入せざるを得なかった)。同写真右は、クスコ方面の停車中の客車である。


写真18 夜間のオリャンタイタンボ駅到着ディーゼル機関車と駅前でのツアー客名のリスト看板を掲げた女性スタッフ, 2014

4).オリャンタイタンボ-クスコのアルマス広場まで
オリャンタイタンボ駅到着が午後8時位であり、筆者の名前が記載された看板を見つけるのは困難さがあったが(写真18)、無事、午後10時前にアルマス広場に戻れてよかった。

13.おわりに

早朝(日が昇る前)にホテルを出発(ホテルの従業員は筆者に特別に朝飯を作ってくれ、感謝)し、クスコ-リマ(飛行機の故障らしく長時間待たされた)-エクアドルのグアヤキル-キトと3本の飛行機利用で、夕方到着した(1日かかりの行程であった)。無事、ラテンアメリカ国際土壌学会の参加・ポスター発表・最終日の研修旅行としての『モライ遺跡』と『マラス塩田』訪問・ツアーでの『マチュ・ピチュ遺跡』を成し遂げることができ、感無量であった。最後に、You TubeのURLを示しておく。

 

  1. 20141115日ペルー鉄道とマチュ・ピチュ遺跡(BGMなし:4分)

https://www.youtube.com/watch?v=sUshw0aV2fo

【参考文献】

  1. アタワルパ.

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%83%91

  1. クスコ. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%82%B3
  2. フランシスコ・ピサロ.

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%B5%E3%83%AD

  1. マチュ・ピチュの歴史保護区

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%81%E3%83%A5%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E4%BF%9D%E8%AD%B7%E5%8C%BA

  1. マチュピチュチケット.

https://ja.ticket-machupicchu.com/ticket/limitations.php?utm_source=chatgpt.com

松井章のブログ. インカ文明を支えた農作物「トウモロコシ」の不思議

https://www.andina-travel.com/blog/inca230704/

  1. マンコ・インカ・ユパンキ.

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%83%91%E3%83%B3%E3%82%AD

  1. オリャンタイタンボ.

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%9C

  1. 小野正広. 2001. 古代アンデス文明不思議物語-インカ帝国のルーツを探る-. 汐文社. 7,15-18, 24-25, 35-45, 57-59, 79-83,95.
  2. ペルーの鉄道.

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%81%AE%E9%89%84%E9%81%93

  1. Restrictions and rules at Machu Picchu 2026

https://www.cuscoperu.com/en/useful-information/data-for-traveler/restrictions-and-rules-machu-picchu/?utm_source=chatgpt.com

  1. 実松克義・西谷 大・村治笙子. 講談社の動くWonder Move 古代文明のふしぎ. 講談社. 90-101(71分のDVDつきでこれも参照).
  2. 世界遺産と黄金の国Peru http://www.peru-japan.org/Aperumap.html
  3. 日曜特集・新世界紀行 世界七不思議の旅編 1990前後. インカの秘都マチュ・ピチュ
  4. 冨田健太郎. 2025. エッセイ496 中南米古代文明とトウモロコシ:農学者の視点から遺跡を訪ねて https://latin-america.jp/archives/66846
  5. 冨田健太郎. 2026, 連載エッセイ 565 首都ボゴタやキトのようなアンデス高山都市が形成された背景 https://latin-america.jp/archives/68430
  6. トゥパク・アマル(初代)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%91%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%AB_(%E5%88%9D%E4%BB%A3)

  1. 2008. 南米・民族融合の大陸を行くPart 1.ペルー. レイルウェイストーリー

[1] カヤオ:首都リマの西部に位置する、国内最大で主要な港町である。カヤオ – Wikipedia

 

[2] ラ・オロヤ:ラオロヤとは? 意味や使い方 – コトバンク

 

[3] ツアースタッフが、前日(学会最後の研修旅行)の夕刻、筆者滞在ホテルを訪問してくれ、ペルー鉄道のチケット等の配布も含めて、このことの説明を受けた。マチュ・ピチュ遺跡訪問日、早朝にはタクシーが出迎えてくれ、サン・ペドロ駅まで送ってくれた。

[4] オリャンタイタンボ駅に併設された宿泊施設(ホテル)で、名称はEl alberque ollantaytambo Sacred valleyEl alberque ollantaytambo Sacred valley – South America Planet

[5] アンデネス:わが国でいう段々畑であるが、これは石垣で囲まれた階段状の畑で、急峻なアンデス山脈の斜面を有効活用している。そして、標高差による微気候を利用して、ジャガイモ、トウモロコシ、キヌア、コカ等、アンデス地域の多様な作物を栽培していた。また、同地域では、灌漑システムを効率的に利用し、土壌侵食の軽減にも努めていた。

[6] ツアーに参加した背景であるが、マチュ・ピチュの遺跡は世界から訪れる有名な観光地であるため、1日当たりの観光者の収容人数が決まっているとのことで、個人単位ではなく、ツアーに参加する形でないと入場拒否されることを懸念してのことであった。また、アグアス・カリエンテス駅では、各ツアー客が使用するバスが決まっており、ツアースタッフが観光客の名前を掲げた看板をいくつか出していたが、筆者の名前が見つからず、焦りを感じたことを覚えている。ようやく見つけることができたが、Kentaro Tomitaという名前が、Quentaro Tomitaとなっていたので、滑稽といえば滑稽であった。

[7] サクサイワマン(Saksaq Waman):インカの遺跡の一つで、ケチュア語で満腹のハヤブサという意味。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%AF%E3%83%9E%E3%83%B3

[8] マチュ・ピチュ遺跡訪問前日の夕刻、筆者滞在ホテルに訪問してくれたツアースタッフによる事前説明があったが、クスコへの戻りであるが、夕刻のアグアス・カリエンテス駅から終着のクスコ・サンペドロ駅までの便がなく、そのほとんどがオリャンタイタンボ駅止まりであった。ツアーの日程では、このオリャンタイタンボ駅からクスコのアルマス広場までは、専用のワゴン車による移動となった。