連載エッセイ565:冨田健太郎「首都ボゴタやキトのようなアンデス高山都市が形成された背景」 | 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ565:冨田健太郎「首都ボゴタやキトのようなアンデス高山都市が形成された背景」


連載エッセイ 565

首都ボゴタやキトのようなアンデス高山都市が形成された背景

執筆者:冨田 健太郎(信州大学 工学部内 アクア・リジェネレーション機構)

1.はじめに

要 約<

筆者は2001年1月から4月までの3ヶ月間、JICA短期専門家として、コロンビアに赴任した。赴任先は、首都はサンタ・フェ・デ・ボゴタ(Santa Fe de Bogotá)(以下、ボゴタと記す)であり、海抜2,640mである。ここで初めて高山病を経験した。配属先は国家土地改良庁(Instituto Nacional de Adecuación de Tierras: INAT[1]であり、ここではかつてのJICAプロジェクトの補完事業として、配属先スタッフに対する土壌肥料学教育等(第三国研修[2]のための教育も含む)に従事した(詳細は割愛)。なお、滞在ホテルから職場までは安全のため、INATから専属ドライバーを準備してくれた。

このコロンビア赴任を契機にして、コロンビア土壌学会(Sociedad Colombiana de la Ciencia del Suelo: SCCSと親睦を図ることにも恵まれ、ドライバーと一緒に、ボゴタ事務所をよく訪問したものであった。JICAでの活動後も、同国には三回ほど入国しているのである(安全を考え、JICA専門家時代のドライバー宅に、有料で泊まる形で)。それゆえ、同国では配属先での教育よりも、上記学会における活動がメインであった(詳細は割愛)。

他方、シニア海外協力隊時代としてのエクアドルであるが、初回赴任時{2014年-2016年でインバブーラ(Imbabura)県イバラ(Ibarra)市}中には、11月16日-20日までは海抜3,300mもあるペルーのクスコ(Cuscoで開催されたラテンアメリカ国際土壌学会に参加した。そして、二回目{2018年-2020年でグアヤス(Guayas)県グアヤキル(Guayaquil)市}中においては、JICAの村民生活向上プログラムに緊急特別協力に関与することとなり、チンボラソ(Chimborazo)県リオバンバ(Riobamba)市(海抜2,800m)も赴き、土壌や河川・灌漑水の水質調査も実施した。この他、国際環境学会の口頭発表のため、アスアイ(Azuay)県クエンカ(Cuenca)市も訪問した(両市での活動の詳細は割愛)。

実は、ここで挙げた都市であるが、海抜2,500m以上のアンデス地帯にあり、活動前に筆者がこれらの地に到着した直後に受けたのは高山病である(クエンカ市は除く)。なぜ、そのような地域が繁栄しているのか? 実は、ボゴタやキトが繁栄した背景は、低地における熱帯病(マラリア、黄熱病およびデング熱であり、ラテンアメリカを植民地としていたスペイン人の多くは、これら熱帯病の犠牲になったのである。それゆえ、これらの病気を回避するため、スペイン人はアンデス高地を目指し、元々は先住民が築いた街を占領し、そこを発展させていったのである。その中で、ボゴタはコロンビアの首都、キトはエクアドルの首都として機能しているということである。さて本稿では、熱帯病の視点からのアンデス高山都市形成の歴史的背景についてまとめてみたいと思う。なお、歴史事項であるため、誤解・誤認を避けることを目的に、ChatGPTによる見解を盛り込んだ形でまとめた。


図1 コロンビアの首都ボゴタとバジェ・デル・カウカ県のカリ市(だいたいの位置)

1. コロンビア

1).活動概況
筆者は2001年1月から4月までの3ヶ月間、JICA短期専門家として、コロンビアに赴任した。職場は首都ボゴタであり(図1)、海抜2,640mである。ここで初めて高山病を経験した。そして、配属先はINATであり、ここではかつてのJICAプロジェクトの補完事業として、配属先スタッフに対する土壌肥料学教育(第三国研修実施における配属先のスタッフ教育も含む)等に従事した(詳細は割愛)。ちなみに、人口は770万人の大都会である。

また、専門家としての赴任中、バジェ・デル・カウカ(Valle del Cauca)県の県庁所在地カリ(Cali)市(図1)近郊の国際熱帯農業センター(Centro Internacional de Agricultura Tropical: CIAT(詳細は【参考文献】エッセイ526参照:URLあり)等を訪問した。

さらには、2002年8月はカリ市、2006年11月はボゴタ市で開催されたSCCSのシンポジウムにも参加し、パナマの劣悪な草原地帯での成果[3]における口頭ならびにポスター発表経験も有している。なお、SCCSでの学会活動も含めて、ボゴタ訪問に当たっては、INAT配属先スタッフへの挨拶の他、JICA専門家時代のドライバー宅に、有料で泊まる形でお世話になった(JICAでの活動後も、同国には3回ほど入国している)。

このように、筆者にとっては、学会活動がメインであったため、他のラテン訪問・活動国と違って、コロンビアでは観光・文化的な紹介ができないのが痛いところである。


写真1 INAT勤務後夕方の首都ボゴタにあるプラサ・デ・ボリバル(Plaza de Bolívar)[4], 2001


写真2 首都ボゴタの全景, 2005

写真1および写真2において、首都ボゴタを示す。海抜2,640mに位置する高山都市であり、高層ビル群も目立っていた。筆者の配属先であったINATも高層ビルの中に事務所を抱えていた。コロニアル風の建造物や広場等、町自体は綺麗なものであった。
2).高山病
実際、到着初日から高山病にかかってしまった。もちろん、初のアンデス赴任経験であり、同国の滞在ホテル到着は夜間であり、2日目から頭痛がひどくなり、頭痛薬服用後に床に就いた。その翌日からその環境に慣れてはいったが、JICA専門家としての活動期間中、滞在先のホテルの風呂で熱いお湯に浸ると(朝夕は寒かったため)、体が酸欠状態になったというか、「ハーハー」することがしばしばあった。高山病の影響としては、筆者もそうであったが、夜中に途中目が覚めたり、空気の膨張の影響と思っているが、腹が膨れる感じに悩まされた。人によるが、下痢する方もいたとのことであった。もちろん、SCCS学会参加等においても、ボゴタ到着初日は頭痛があり、1日寝込む状態であった。


図2 エクアドルの地図(本稿に挙げた地名はだいたいの位置)

2. エクアドル

1).活動概況
コロンビアと異なり、エクアドルでは多様な活動を実施してきた。図2にエクアドルの地図を示す(本稿で取り上げた地名を挙げ、簡易配置とした)。初回赴任{2014年-2016年(JICAシニア海外協力隊として)およびSENESCYTによる免許取得下での活動2016年-2017年[5]}は、インバブーラ県イバラ市において活動してきた。この他、JICAシニア海外協力隊二回目赴任(2018年-2020年)は、グアヤス県グアヤキル市であったが、この他、JICAの村民生活向上プログラムに緊急特別協力に関与することとなり、チンボラソ県県都リオバンバ市へも赴き、土壌や河川や灌漑水の水質調査も実施した(詳細は割愛)。


写真3 エクアドルの首都キト, 2014


写真4 エクアドルの首都キト市近郊の赤道(左)およびキト市中心街のサン・フランシスコ聖堂・修道院, 2014

2).高山病
初回時赴任時の2014年3月下旬、ピチンチャ(Pichincha)県にある首都キト市(海抜2,800m)到着したときは高山病をあまり感じなかった。写真3にキトの写真を示す。人口198万人で、前記ボゴタ市よりは少ない。2014年3月下旬の土曜を利用して、屋根なし二階建てバスでの散策時の写真であるが、同写真右は同市最大級のバシリカ教会である。なお、キト市全体が、1978年にユネスコの世界遺産に登録されている。さらに、翌日の日曜に訪問したのが、赤道サン・フランシスコ聖堂・修道院である(写真4)。

ここエクアドルでは、多様な国際学会が開催され、筆者も参加・口頭発表等を実施したが、高山病らしきものを感じたのは、低地のサントドミンゴ・デ・ツサァチラス(Santo Domingo de Tsáchilas)県の県都サントドミンゴ市で開催された国際環境学会での発表等[6]の後(2015年10月26日-28日)、イバラ市のバス停到着時であった(心臓がドキドキするような感じはあった)。

特に、高山病を顕著に感じたのは、二回目赴任のグアヤキル市での活動であった。ご存じの通り、同市は太平洋側の低地であり、前記エッセイでも報じているが、大学での仕事を金曜の午前中で早退し、陸路で同日夕方にリオバンバに到着し、土日は鉄道写真や動画撮影も含めた散歩をし、高山環境に慣れるよう努めたものであった(前エッセイのエクアドルの鉄道も参照されたい。巻末の【参考文献】参照)。ところが、JICAの安全対策講習会(年に2回開催)の参加に当たっては、低地グアヤキルから海抜2,800mにある首都キトまで飛行機での移動であった(本稿10.にてYou Tubeアップ動画のURL教示)。それゆえ、到着して1日-2日後には高山病の影響が出た(シニアでの活動中間報告会も含めて、会議に参加しても、頭の中が酸欠に近い状態となり、睡魔に襲われたりした。会議後は早寝した)。

写真5にはグアヤキル(左)とリオバンバのスクレ(Sucre)公園(右)を示す。グアヤキルは、左側に大河グアヤス河があり、海抜5mの低地である。他方、高海抜のリオバンバ市は高層ビルのない落ち着いた感じの小都市であった。


写真5 グアヤキル市全景(左), 2019とリオバンバ市のスクレ公園, 2020

3. ペルー

1).活動概況
補足事項であるが、ペルーについて追記したい。先のコロンビアのボゴタは2,640m、エクアドルのキトとリオバンバは2,800mに対して、2014年11月下旬、クスコは3,300mという筆者にとっては史上最高海抜地への訪問であった(図3および写真6)。ちなみに、写真7は、クスコ市の見どころのアルマス広場(Plaza de Armasである。これは、初回エクアドル赴任中の任国外旅行制度を活用して、ラテンアメリカ国際土壌学会に参加・ポスター発表を行うためであり、学会研修旅行として『モライ遺跡』と『マラス塩田』も訪問した。

その翌日、個人的にツァーに参加して、『マチュ・ピチュ遺跡』を訪問できる機会にも恵まれた[7]次のエッセイでペルーの鉄道とマチュ・ピチュ遺跡も補足的に取り上げる)。

図3 ペルーのクスコ(だいたいの位置)
2).高山病
デリカシーがないが、結論から記して、クスコの予約ホテル到着後、高山病による頭痛が襲い、お通じにも変化があった[8]。実はその前に、エクアドルの太平洋側北部の低地エスメラルダ(Esmeralda)県の公立大学エスメラルダス技術大学(Universidad Técnica de Esmeraldas “Luis Vargas Torres”で開催されたエクアドル土壌学会(Sociedad Ecuatoriana de la Ciencia del Suelo: SESCに参加し、口頭・ポスター発表を実施した。

その後、急いで、高海抜のキトに戻り、キトから低地のグアヤキルおよびペルーの首都リマ(Lima)市を経由してクスコに入るという複雑な航路であった。そのため、体の環境の変化についていけなかったのであろう。


写真6 クスコ市全景, 2014


写真7 クスコ市中央のアルマス広場(後方右は大聖堂), 2014

4. ラテンアメリカ征服時のスペイン人が高山地域に目を向けた理由

1).アンデス高地の環境
このように、上記三ヶ国において、筆者は身をもって高山病(頭痛の他、下痢、空気膨張によるお腹の膨れ感等)を経験した。まだ、筆者は、海抜3,650mもあるボリビアの首都ラパス(La Paz訪問経験はないが、到着直後に高山病に見舞われるであろう。

しかし、今までの活動経験からも考慮して、高山病を克服し慣れてしまえば、アンデス高地は、朝夕は冷え込むが[9]、湿気がなく、住みよい環境ではあるといえる。さて、ラテンアメリカ征服時のスペイン人が、このような高山地帯に注目し、都市を建設していった背景を整理したいと思う。

2).マラリア、黄熱病およびデング熱等の熱帯病

もちろん、当時のスペイン人にとっても、それなりに高山病の影響はあったと思われるが、それよりも恐ろしいものがあったのである。これは結論から記して、マラリア黄熱病(症状としては、黒い血を吐いて死ぬという)およびデング熱等の熱帯病である。低地では高温多湿の環境下にあるので、前記熱帯病が猛威を振るっており、多くのスペイン人がその犠牲になったということである。そこで、彼らは、これら熱帯病を回避するため、アンデス高地へと移動していったのである(気温が低いため、蚊が生存不可)。前記したように、アンデス地域はそれなりの降水量は認められるが、湿気の少ない乾燥状態(アンデス起源であるジャガイモトマト等の農作物にとっても最適環境)[10]かつ夜間冷え込みにより、上記熱帯病のリスクがほぼ消える。事実、筆者も経験しているが、住みよい環境であったと思っている(生活環境がヨーロッパに近く、身体に合う)。

もちろん、現在においては、医学の発達により、ラテンアメリカ諸国訪問においては、黄熱病の生ワクチンの接種が義務付けられるケースがあり、筆者はイエローカードを所持している。マラリアは、現在でもアフリカが主流であると思うが、デング熱は厄介な部分があるかもしれない(二度感染すると、出血がひどくなると聞いている)。

これら熱帯病の恐ろしさについては、筆者が活動に関与した二ヶ国(パナマエクアドル)における歴史的事例を挙げて、整理しておきたい。

5. パナマ運河建設とマラリアや黄熱病

1).レセップスの悲劇(1881年-1889年)
前エッセイ508でも報じた事項であるが、パナマ運河建設は、最初フランス人のフェルディナン・ド・レセップス(Lesseps)が試みた。レセップスは、スエズ運河(水平式:1859年-1869年)で成功していたので、「パナマでもできる」と自信満々であった。

しかし、乾燥地帯にあるスエズ運河と違って、当時の実情を箇条書きで示すと、

  1. 労働者がマラリアや黄熱病で大量死
  2. 工事はほぼ進まず
  3. フランス会社は破産
  4. レセップスは失脚し裁判へ

この時代のパナマ(当時は大コロンビア領であり、パナマは独立前)は、『世界最悪の黄熱病地帯』と称され、生き残ること自体が難しい状況であった。
2).米国介入から運河完成まで1904年-1914年)
その後、1904年から米国が介入し、『技術ではなく、病気』であると完全に理解し、以下のことを徹底化させた。

  1. 蚊の生息地を潰す
  2. 水溜りの徹底排除
  3. 排水システム整備
  4. 殺 虫
  5. 住宅や施設の網戸化

等を徹底し、黄熱病をほぼ撲滅することに成功した。その結果、パナマ運河(閘門式)は1914年に完成したのである。

6. 野口英世博士と黄熱病

1).エクアドルにて黄熱病の謎に挑む

1927年、野口英世博士はエクアドルのグアヤキル(写真5の左)で黄熱病研究に取り組んだことは有名である。前記したように、二回目エクアドル赴任先は、正しくグアヤキルであり、配属大学であったリトラル工科大学(Escuela Superior Politécnica del Litoral: ESPOLの同僚らも、その名前を知っていた。

歴史的には、この当時、黄熱病の致死率は非常に高く、野口博士も死を覚悟しての研究活動であったと聞いている(衛生面には十分な配慮をしていた)。同博士の専門は細菌学であり、この当時は光学顕微鏡を駆使した形で病原細菌を見つけることが主な仕事であった。

そして、研究の結果、エクアドルでは、黄熱病らしき細菌に対するワクチンを開発したことで、エクアドルで歓喜を受け、同国を去った。
2).野口英世博士による研究と黄熱病の正体
ところが、やがてそのワクチンが無効であると知らされた。さらに、アフリカでも黄熱病の猛威があり、「黄熱病を引き起こす別の病原細菌がいる」と考えていた。そして、アフリカのガーナ(首都はアクラ:Accra)に赴くわけであるが、その半年後、野口博士自身も黄熱病に感染し客死した(1928年)。最後の言葉が、「私には分からない」であった。

現在においては、それは納得できる事項であり、黄熱病の正体は、微細なウイルスであった。したがって、当時の光学顕微鏡で発見できる筈などなかった(ウイルスすら、その存在が知られていなかった時代である)。

このように、彼の研究には議論もあるが、ここグアヤキルでは、黄熱病研究史の象徴的人物として、野口英世博士の名前が知られているのは確かである。その証拠の一つが、グアヤキル市には、Hideyo Noguchi通りがあり(写真8)、ESPOLの友人の一人が筆者を案内してくれた。


写真8 Hideyo Noguchi通りにて, 2018

さて、この肝心な黄熱病の正体がウイルスであるということであるが、同博士の死から約30年後に、電子顕微鏡が開発されてから、それが明らかとなったのである。その後、医学がどんどん進歩して、先のグアヤキル(人口約270万人)は、現在では黄熱病の心配はなく、首都キトを抜いて、エクアドルで最大の人口数を抱える大都会となっている。

7. 16-17世紀のラテンアメリカはどういう環境?

1). ワクチンも特効薬もない時代
16-17世紀のスペイン人にとって、ラテンアメリカの低地(海岸地帯・河川流域)では、重複するが、黄熱病、マラリア、デング熱、腸チフス、赤痢、蛇や虫害等が存在し、正しく危険地帯であった。その中でも、黄熱病やマラリアによる熱帯病は、レセップスによるパナマ運河建設の失敗や野口英世博士による研究活動からも、深刻な問題であったことが理解できよう。まして、16-17世紀とは彼らの時代以前の話であり、当時としては:

  1. 抗生物質なし
  2. ワクチンなし
  3. 病原体の概念も未確立
  4. 蚊が媒介するとさえ知らない
  5. 医療は祈祷と隔離が中心

2). 生存戦略としてのアンデス高地へ侵入
スペイン人の生存戦略は、そのような低地から離れることであり、前記したようにアンデス高地を目指したのである。まさに、生存戦略である。やがて、インカ帝国等をはじめ、先住民族の地に足を踏み入れ、そこを攻撃し、自分たちの町作りを行っていったのである。その代表格が、コロンビアの首都であるボゴタ、エクアドルの首都であるキトなのである。この他、インカ帝国の首都であったクスコ、エクアドルのチンボラソ県の県都であるリオバンバやアスアイ県のクエンカも対象にしながら、以下、歴史的事項をまとめておく。

8. 高山都市が首都となった理由― ボゴタとキトの場合

1).高山都市が首都になった理由
ラテンアメリカには、世界でも珍しい『高山都市の首都』が存在する。それが、コロンビアのボゴタ(2,640m)とエクアドルのキト(2,810m)であり、その代表例である。

これらの都市は、低地から移動してきたスペイン人が築いたのではなく、もともと先住民文明の時代から存在していた高地都市だったのである。そして、既に行政機能や農業基盤の整っていたボゴタのムイスカ都市、キトのインカ都市を征服し、そのまま植民地行政の中心に据えたというのが歴史的事実なのである。

高地は、地形的に外部勢力が侵入しにくく、防衛上も有利であった。インカ帝国が築いた高地道路(カパック・ニャン)が各都市を結んでいたことも、植民地統治において大きな利点となった。こうして、高山都市がそのまま首都へと発展した歴史的経緯には、『病と地理』という時代的背景が深く関わっている。次に、ボゴタとキトの先住民族について少し説明を加えたい。
2).ボゴタ(2,640m ムイスカ文明の首都バカタ(Bacatá
スペイン到来以前、ボゴタ平原には ムイスカ族 が高度な農耕都市を築いていた。そこには、ムイスカ連合王国の中心都市 バカタ(Bacatáがあり、この名前が、やがてボゴタに変化したということである。

主な農産物としては、ジャガイモトウモロコシキヌアコカ等であった。そして、交易路が整備された高原文明の中心地であった。そこに、低地からやってきたスペイン人は、この都市を征服し、植民地行政都市として再編したのである。それが、現在のコロンビアの首都ボゴタなのである。
3).キト(2,810m)= キトス王国+後にインカ帝国の都市
起源は キトス王国(Kitu)であり、その後、インカ帝国が北端の要衝として都市を整備した。ここは、高地農業・軍事・交易の中心であり、都市計画や道路網が発達し、人口も多かった。

スペイン人はインカ帝国を制圧後、キトの既存都市をそのまま首都(植民地行政都市)に採用したのである

9. 補足事項 ― エクアドルのリオバンバとクエンカ、ペルーのクスコの場合

エクアドルのリオバンバやクエンカ、それにペルーのクスコは、海抜2,500~3,300mに位置する都市も、もともとはインカ帝国の重要拠点であった。まして、クスコはインカ帝国の首都であった。

さらに、ここでもう一つのアンデスの都市を追記したい(You Tube動画のURLを加えた関係上)。それは、2019年4月3~5日、国際環境学会への参加および口頭発表のため、ESPOLの同僚とともに、クエンカを訪問した。クエンカ市街の標高は約2,560mで、首都キトと同様に、1999年に世界文化遺産に登録されている。クエンカは、インカ時代にはトメバンバ(Tomebambaと呼ばれ、北のキトとインカ帝国の首都である南のクスコ(ペルー)を結ぶ中継地点として、政治・軍事・宗教の面で重要な都市であった。特に、ワイナ・カパック皇帝の有力な拠点として発展したことで知られている。ここでは、スペイン人は、黄熱病等の疫病からの避難地としてというよりも、インカによって既に高度に整備されていた石造建築、灌漑施設、インカ道等の都市基盤に着目し、『使える都市』としてこの地に移住し、植民都市を発展させていったと考えられる。実際、キトとクスコの中間に位置することから、「第二のクスコ」あるいは「北のクスコ」とも称され、反乱抑制、徴税、キリスト教布教の拠点としても都合が良かった。このように、キトやリオバンバと同様、スペイン人が高山都市に注目した点としては共通している。

なお、クエンカを代表する宗教建築として新旧大聖堂があり、特に、19-20世紀に建設された新大聖堂は青白いドームを持つ外観が象徴的である。他方、旧大聖堂は初期植民地時代の象徴であり、現在は博物館となっている(写真9)。なお、これらの石材はインカ遺構由来である。


写真9 クエンカ市の新大聖堂(左)と旧大聖堂(右), 2019

いずれにせよ、スペイン人がこれらの町を征服し、既存の建築や都市構造を活かして再編した点では、ボゴタやキトと共通している。しかしながら、これらの地域は首都にはならなかったため(ペルーでは、フランシスコ・ピサロが太平洋側の低地リマを首都とした)、本稿では補足として留めることとする。

10. YouTube動画

最後に、3つほどyoutubeを紹介しておく。一つは、2018年11月の二回目赴任当初におけるエクアドルJICA事務所へ出張で赴くに当たり、太平洋側のグアヤキルの国際空港ホセ・ホアキン・デ・オルメード国際空港Aeropuerto Internacional José Joaquín de Olmedoから、首都キトの国際空港マリスカル・スクレ国際空港(Aeropuerto Internacional Mariscal Sucreへ向かうに当たっての、国内便の離発着動画である。これは、太平洋側の低地(海抜5m)からアンデス高地(海抜2,800m)の光景が、上空から眺めることができるというものである。しかし、曇り時であったのが残念であるが、その低地グアヤキルとアンデス高地の環境の違いが理解できるであろう。

二つ目が、学会終了日の午後、クエンカ市の屋根なし二階建てバスでの市内散策動画である。残念ながら、筆者のデジカメ操作ミスで、市内のバス停到達(終点)までではなく、近郊の河川域までの途中動画となってしまった(出発してからは、建造物には赤と黄色上下のアスアイ県の県旗(けんき)が立ち並び、建造物もコロニアル風で綺麗な光景である)。

三つ目が、12月13日リオバンバ市到着翌日と活動期間中の年末のお祭り(Fiesta)に遭遇したので、チンボラソ県庁勤務終了後にホテルに戻る前の踊りの動画である。

  1. Guayaquil a Quito, Noviembre de 2018. (BGMなし:2250秒)

https://www.youtube.com/watch?v=hGBjRWxduhI

  1. 201843-5日 エクアドルのクエンカ二階建てバス観光(BGMなし:26分)

https://www.youtube.com/watch?v=oAQzf8_eHzQ

  1. 2019121417日エクアドルのリオバンバ Baile現地の音楽メロディーが自然と入ったため、著作権の影響を受けたが、著作権者はYou Tubeでのコンテンツの使用を許可ということである30分)

https://www.youtube.com/watch?v=RFvRAg7diDg

【参考文献】

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%AB_(%E3%82%A8%E3%82%AF%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%82%A2%E3%83%A4%E3%82%AD%E3%83%AB

  • ムイスカ人.

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%AB%E4%BA%BA.

  • 2002. 『その時歴史が動いた』. 人類のために生き、人類のために死す 〜未公開書簡が明かす野口英世の真実〜. 10月30日.
  • 小野正広. 2001. 古代アンデス文明不思議物語-インカ帝国のルーツを探る-. 汐文社. 7,15-18, 24-25, 35-45, 57-59, 79-83,95.
  • キト. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%88
  • Quitu culture.

https://en.wikipedia.org/wiki/Quitu_culture#:~:text=To%20some%20the%20kingdom%20of%20Quito%20is,rather%20hinting%20at%20regional%20states.%20See%20also.

  • リオバンバ.

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%90

  • 実松克義・西谷 大・村治笙子. 講談社の動くWonder Move 古代文明のふしぎ. 講談社. 90-101(71分のDVDつきでこれも参照).
  • 冨田健太郎. 2018. ラテンアメリカ農業地理概論. MyISBN – デザインエッグ社. 32-49.
  • 冨田健太郎. 2025. エッセイ496 中南米古代文明とトウモロコシ:農学者の視点から遺跡を訪ねて https://latin-america.jp/archives/66846
  • 冨田健太郎. 2025. エッセイ508 パナマ運河と私たちの暮らしとの関係性 https://latin-america.jp/archives/67286
  • 冨田健太郎. 2025. エッセイ516 エクアドルの地域別農業の特色:コスタ・シエラ・オリエンテ地域別事例 https://latin-america.jp/archives/67392
  • 冨田健太郎. 2025. エッセイ526 植物遺伝資源と小農の文化生態系の保全:コスタリカでの保全&パナマでの農業事例 https://latin-america.jp/archives/67702
  • 冨田健太郎. 2026. エッセイ555 エクアドルの鉄道において、SLも走っていた

https://latin-america.jp/archives/68123

[1] 2005年同国訪問当時は、新組織として、コロンビア地域開発研究所(Instituto Colombiano de Desarrollo Rural: INCODERとなっていた。

[2] 第三国研修:配属先スタッフを教官とし、他国からの若手を受け入れ研修を行う制度。

[3] 1992年-1995年までのパナマ青年海外協力隊の活動をベースとし、その後も継続研究を通じて、同国農牧研究所にて、劣悪な酸性土壌の合理的肥培管理と農牧林生産研究に関与・従事してきた。実は、パナマでの研究対象地域は、コロンビアのアンデス地域を超えた東部劣悪草原地帯(ジャノス東方平原と称する)やアマゾン地域の土壌環境と類似しているため、パナマでの成果は直接的・間接的に応用・還元できることを基本哲学として訴えてきた。幸い、SCCSの学術雑誌Suelos Ecuatorialesにも多数掲載された。

[4] プラサ・デ・ボリバル:単なる広場ではなく、南に国会(立法)、北に最高裁(司法)、西に大統領府・市庁舎(行政)および東に大聖堂(宗教)が四方を囲む国家の象徴空間である。その中心にボリバル像を置くことで、『共和国の中心に解放者が立つ』という強い政治的・歴史的メッセージを示している。

ボリバル広場 (ボゴタ) – Wikipedia

[5] 2016年-2017年は、院生修士論文指導教官としての職務遂行のため、現職先より休職願いを受け、学術研究用プロフェッショナルビザ(9V EC)+教育省高等教育・科学・技術・イノベーション事務局(Secretaría de Educación Superior, Ciencia, Tecnología e Innovación: SENESCYT最高級(4級:Cuarto nivel)の上級研究員・大学教員免許取得下での有給で大学院教官を継続し、任務完了後に帰国した。

[6] エキノクシィアル工科大学(Universidad Tecnológica EquinoccialUTEでの開催で、その後、日本人による日本輸出用の有機農法による青果用バナナプランテーションを実施している田辺農園を訪問した(土壌調査解析も実施した)。ここでは詳細は割愛。

[7] 昨年のエッセイ496の『中南米の古代文明とトウモロコシ』を参照のこと。本稿の【参考文献】にもタイトルとURLを表示)。

[8] エスメラルダの学会参加時のお通じは問題なかったが、クスコ到着後、白い便がでた。初めての経験であったが、3,300m級での高山病の一つであると考えた。なお、ペルーからエクアドルに戻った後は、この問題は解決した。

[9] 夕方、シャワーを浴びるにせよ、取り付けヒーターにもよるが、温水が出るまで蛇口を開けっ放しで5分-10分位待ったものである。

[10] 以前、筆者が執筆したエッセイ『植物遺伝資源と小農の文化生態系の保全:コスタリカでの保全&パナマでの農業事例』の3.2).アイルランドの事例を参照(URL提示)。湿潤地帯では、これら作物にとっても病原菌が猛威を振るったのである。